イルゼ・コッホとルドルフ・スパナー—V.E.フランクル著『夜と霧』[付録編8]-(松沢呉一)
「デマの流布が「ホロコーストはなかった論」をサポートする—V.E.フランクル著『夜と霧』[付録編7]」の続きです。
不実の噂
ここに書影を出したGeorge R Mastroianni著『Rumors of Injustice: The Cases of Ilse Koch and Rudolph Spanner』はこの4月に出たばかりのものです。
著者のジョージ R. マストロヤンニは米国陸軍研究所の心理学者として10年以上勤務し、現在、アメリカ空軍士官学校名誉教授であり、ペンシルベニア州立大学の講師でもあります。犯罪心理学や「ホロコーストの心理学」に詳しいよう。
サブタイトルにイルゼ・コッホと並んで名前が出ているルドルフ・スパナーは前々回書いたように、第二次世界大戦時は、ボーランドのダンツィヒにあったダンツィヒ解剖学研究所の所長でした。1895年生まれの解剖学者で、戦前はノーベル医学生理学賞の候補になったこともあります。
ナチス党員だったことが一因でしょうが、ルドルフ・スパナーは戦後逮捕されています。しかし、人脂石鹸の証拠はないまま短期で釈放されました。占領下では公職に就けませんでしたが、1955年、ケルン大学の教授に就任しています。
ホロコーストに関与していたらこうはならなかったでしょう。少なくとも裁判にはかけられていたはずです。
イルゼ・コッホとルドルフ・スパナーとの対比
『Rumors of Injustice: The Cases of Ilse Koch and Rudolph Spanner』の解説を読むと、このルドルフ・スパナーと、同じく証拠なき噂で終身刑となって獄中で自殺をしたイルゼ・コッホを対比させて、どちらの「不実の噂(Rumors of Injustice)」もいまなお事実であるかのように拡散されつつ、片や罪を問われずに大学教授に復帰して、片や終身刑になって獄中で自殺に追い込まれたことの差はどこから生じたのかを検証したもののようです。
この著者がどういうアプローチをしているのかわからないですが、まっとうな研究者、まっとうなジャーナリストであれば、どちらの噂も根拠がないことを前提にしているはずで、「スパナーの疑惑は晴れたが、コッホの疑惑は晴れない。よってこの結果は当然」なんてことは言ってないでしょう。
このテーマは「証拠がないのになぜイルゼ・コッホは終身刑になったのか」と言い換えられます。
それでも、「ルドルフ・スパナーはホロコーストには関わっていないことを証明することができたのに対して、イルゼ・コッホを知る人物たちは、処刑された夫を筆頭にすでにこの世にいないか、いても証言しにくい場にいた」あるいは「ルドルフ・スパナーは学者としての業績から、早く復帰させた方がドイツ復興にとってメリットがあるのに対して、イルゼ・コッホには社会に対する功績は何も期待できない」といったところに差を見出すことができるかもしれないですが、おそらく別の視点です。
それと同じか違うかわからないですが、私は私でこの差を説明できます。この疑問は、『夜と霧』の解説では「あの時点でもイルゼ・コッホが人皮のランプシェイドを作った(作らせた)証拠がないことは裁判記録で確認できたはずなのに、なぜ見てきたかのようにイルゼ・コッホの犯罪を断定したのか」と言い換えてもいいかと思います。
※George R Mastroianni『Misremembering the Holocaust: The Liberation of Buchenwald and the Limits of Memory』 同じ著者によるもの。人の記憶がどれだけいい加減なものなのかをブーヘンヴァルト裁判をサンプルに論じたもののようです。私の問題意識とかなりかぶります。
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