松沢呉一のビバノン・ライフ

メディアの発達は個人を消滅させる(側面もある)—セバスチャン・ハフナー著『ナチスとのわが闘争』[6]-(松沢呉一)

個人主義を貫徹できない社会の仕組み—セバスチャン・ハフナー著『ナチスとのわが闘争』[5]」の続きです。

 

 

 

アルベルト・シュベーアのメディア論

 

vivanon_sentence「なぜ個人主義を貫徹しにくい社会になったのか」についてはセバスチャン・ハフナーは詳しくは説明していないのですが、ニュルンベルク裁判で、アルベルト・シュベーアが述べた論がひとつの説明になっています。

以下はジョセフ・E・パーシコ著ニュルンベルク軍事裁判』より。

 

 

どうしてヒトラーの悪魔的な支配力に屈してしまったのか。それは現在の通信手段……ラジオ、電話、テレックスなど……のせいなのだと、シュペーアは説明した。いまや指導者は、遠隔地にいる部下に独自の判断をくださせるため権限を委譲する必要はないのだ。現代の通信手段を使えば、ヒトラーのような指導者が、自分のいいなりになる集団を通じて、自分で支配できるのである。「ですから、世界中で科学技術が進歩すればするほど、個人の自由と人々の自治が不可欠になるのです」

 

 

ニュルンベルク裁判の被告の中で、シュペーアは突出した確信的ヒトラー批判者でありました。法廷戦術ということもあるのですが、ある段階まではヒトラーの極々近いところにいて、なおかつ頭の切れる人物なので、その発言には説得力があります。

ナチスにおいてメディアの果たした役割を重視し、権威に依存する性質を持つドイツ国民をそれまで以上に結束させて、隅々までヒトラーの指令を浸透させたというのがシュペーアの解釈です。

だからこそ、それに対抗する個人の自由と、独裁に対抗できる自治が必須であると言ってます。しかし、相当の自覚とリテラシーがない限り、こういう社会では人は簡単に丸め込まれます。

前に数字を確認したように、ドイツ人はヨーロッパにおいては個人主義が薄い。その薄さとナチスの登場は無関係ではないでしょうし、その国民に対してメディアの果たした役割は無視できない。

 

 

 

どこにいても群集心理に支配される社会

 

vivanon_sentenceゲッベルスが宣伝省を作って、新聞、出版をコントロールし、映画やラジオやポスターを宣伝省自身が駆使していったのは素晴らしい着眼点だったと言わざるを得ません。ギュスターヴ・ル・ボン群衆心理』をテキストにしていたナチスだけのことはあります。

ル・ポンが言う「群衆」がそれまでのように生身の肉体をもって蝟集することなく成立するようになったのです。バラバラの個人がラジオ受信機の前で群集を作り出すことが意識されないまま可能になって、「群集心理」が発揮されるようになりました。

私もあの本をテキストにして「群衆心理に打ち勝つ方法」シリーズを書いたわけですが、あそこで論じたように、地縁、血縁が断たれた社会では、「依存する権威」は長屋や町内の長老ではなく、メディア上の存在になり、今は「合わせる周り」がSNSでつながる人々になります。つねにSNSをチェックする人はつねに群集心理に囚われる。

SNSは賢明な個人の集まりであれば賢明な道具になりますが、愚昧な個人の集まりであれば愚昧な道具に堕します。言うまでもなく、ドイツよりさらに個人主義が薄い日本では、ドイツ以上に自覚的でい続けないと個人の自由や自治は簡単に壊れます。

必要以上に個人主義に徹することが独裁を防止する秘訣です。さもないと、意図せずとも個人主義者としてナチスに抗したヴェルナー・フィンクにも、国を捨てたセバスチャン・ハフナーにもなれないのですが、個人主義が根付いている文化圏と違って、日本では「個人主義とは?」から始める必要があります。ネイティブ・スピーカーは文法を学ぶ必要がないのに対して、外国語は文法を学ぶ必要があるのと一緒。

私も性格的個人主義者であることに気づくまで半世紀かかりました。

※英語版Wikipediaより、1936年の国民ラジオ(Volksempfänger)宣伝ポスター

 

 

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