松沢呉一のビバノン・ライフ

あの「抵抗運動の闘士」は反ユダヤ主義の扇動記事を満載する雑誌の編集長だった—ゲッベルスは天才[6]-(松沢呉一)

ナチス・ドイツにおける女性誌の役割—ゲッベルスは天才[5]」の続きです。

 

 

ルート・アンドレアス=フリードリッヒの勤務先

 

vivanon_sentenceノルベルト・フライ/ヨハネス・シュミッツ著『ヒトラー独裁下のジャーナリストたち』には女性雑誌に関与していた人物として、ルート・アンドレアス=フリードリッヒが何度か登場します。『ベルリン地下組織』の著者です。「何度か」とは言え、それぞれついでのように出くるだけで、重要な扱いではないのですが、私にとっては重要でした。

 

 

ルート・アンドレアス=フリードリッヒは当時「ドイツ出版社」が発行していた婦人・モード雑誌に寄稿していたジャーナリストで、戦時下でひそかに書き綴った日記メモを敗戦後の四七年に出版した。

 

 

ここで「日記メモ」としていることに注目。本人は日記をそのまま出版したと読めることを書いていたわけですが、そんなことはあり得ないですから、「メモをもとに戦後書いたもの」と著者は判断して、こうしたのでしょう。適切。

ここには「寄稿していたジャーナリスト」となっていて、これはルート・アンドレアス=フリードリッヒが『ベルリン地下組織』に書いていたことをもとにしているのでしょうけど、他の箇所に分散している記述をつなぎ合わせると、ただの書き手だったのではなくて、女性雑誌「若い女性」の記者から始まって、1943年6月からは「婦人同志」の編集長でした。

「婦人同志」は、「若い女性」と他二誌の女性雑誌を併合したもので、1943年4月スタート、1944年9月終了。

つまりは一寄稿者ではなく、誌面に責任を持つ立場でした。

女性誌に対してはしばらくの間、比較的圧力はゆるくて、とくに「若い女性」は、ナチスの母性強調に従わず、働く独身女性を対象にしていましたが、戦争が進むにしたがって、その余地はなくなって、ナチス色、反ユダヤ色が強まり、戦争礼賛となっていき、新雑誌「婦人同志」はナチス仕様の雑誌に衣替えして、「反ユダヤ主義の悪質な扇動記事」が満載されていたそうです。

ルート・アンドレアス=フリードリッヒは反ユダヤ主義の悪質な扇動記事満載の雑誌の編集長だったのです。

「Kamerad Frau」1944年3号 残念ながら中身まではわからず

 

 

どう考えたらいいのか

 

vivanon_sentence

この話はどうもすっきりしない。当時、新聞や雑誌に関わっていた人たちは、多かれ少なかれナチスには協力しています。そういった記事を一切書いていない人もいるでしょうけど、どの媒体でもナチス肯定、ユダヤ排斥の記事は出ている以上、間接的には協力をしている。息抜き、ガス抜きの記事であっても、ゲッペルスの要望通り。

ヒトラー独裁下のジャーナリストたち』によると、ヒトラーが政権を樹立した際、直接に迫害を受けて追放されたジャーナリスト、つまりは左翼だったりユダヤ人だったりを除くと、「ジャーナリストを辞めた者は一人もいない」とのことです。把握できていないだけで、ちょっとくらいはいたかもしれないですが、ゼロだとしてもそんなにおかしくはない。この時点ではなお闘えると思っていたでしょうし、「長くは続かない」と思っていたのも多かったでしょうから。

しかし、それから10年以上、記者や編集者をやって、最後は反ユダヤ主義の悪質な扇動記事満載の雑誌の編集長になった人は、「上の命令で仕方がなかった」という以上に、積極的だったのではないかと疑えます。

地下活動をやっている人は、目をつけられないように、表ではナチスに協力的になって、自分から「ハイル・ヒトラー」とやることもあったでしょう。その辺の事情はわからないですが、私の中にすっきりしない気持ちが残るのは、それ自体ではなく、『ベルリン地下組織』でそれを伏せたことにあります。

「Die junge Dame」1939年25号

 

 

next_vivanon

(残り 1405文字/全文: 3024文字)

ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。

ウェブマガジンのご案内

会員の方は、ログインしてください。

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ