松沢呉一のビバノン・ライフ

戦中でもドイツではハンドバッグの新作が売り出されていた—ゲッベルスは天才[4]-(松沢呉一)

ゲッベルスはメディアに娯楽性や多様性を求めた—ゲッベルスは天才[3]」の続きです。

 

 

 

娯楽雑誌こそゲッペルスの狙い目

 

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1920年代から30年代にドイツで人気があったのはグラビア誌で、その筆頭が「ベルリン・イルストリルテ新聞(BIZ)」でした(ノルベルト・フライ/ヨハネス・シュミッツ著『ヒトラー独裁下のジャーナリストたち』で訳者は「ベルリン・グラビア新聞」と訳していますが、グラビア印刷が出てくる前からの週刊新聞です。「ベルリン図解新聞」「ベルリン・イラストレイテッド新聞」でもいいのですが、ドイツ語のままにしました。以下略称のBIZを使用します)。

BIZは1891年創刊。当初は写真ではなくイラストが満載された新聞でした。1901年から写真の新聞印刷が可能となって、以降は爆発的に売れて国民的新聞となり、1931年には195万部に。

報道記事もありつつ、娯楽性も強く、政治性の薄い新聞であり、プロパガンダには娯楽性が必要と考えるゲッベルスがここに目をつけないわけがない。しかし、ゲッベルスが露骨にやるはずもなく、サブリミナルのようにプロパガンダを入れ込みます。

以下は『ヒトラー独裁下のジャーナリストたち』から。

 

 

三三年四月末、強制収容所を平穏と秩序に満ちたオアシスとして紹介する写真ルポを掲載した。その写真で見る限り、拘禁中の政治囚たちはスポーツを楽しんだり、新聞を読んだり、あるいは監房でゆっくりコーヒーを味わったりしていた。説明には「休憩時間に談笑も楽しんでいる」とあって、そこには何か変だぞ、と疑うような姿勢は微塵も見られなかった。

 

 

この段階での強制収容所はもっぱら共産党員や社会民主党員をぶちこむ施設であり、絶滅収容所のようにすぐさま殺されることはないにしても、そんな長閑な収容所のはずがない。

このやり口は中国の強制収容所の説明を彷彿とさせます。あくまで再教育施設であり、断種や拷問なんてあるわけがないと。だったら、自由に取材や調査をさせればいいわけですが、それはやらない。

ナチスの場合は視察用の収容所テレージエンシュタットまで作ってました。アウシュヴィッツよりはるかに長期にわたって収容されていたヴィクトル・フランクルが『夜と闇』で一切触れていない収容所です。

おそらくこういったプロパガンダの蓄積があったため、ユダヤ人の連行が始まって、そのことに気づいた多くのドイツ国民は「そんなひどいことはしないだろう」と考え、ヘンリエッテ・フォン・シーラッハがユダヤ人を暴力的に連行する現場を見てもなお、「ヒトラーおじさんの知らないところでこんなことが起きている。教えてあげなきゃ」と考えた遠因になったのだと想像できます。身内をも幻惑するプロパガンダ。

そういえばヘンリエッテは、戦後、ヒトラーについて「自分や他人を少し幸せにしたかった」との発言をして物議をかもしています(「著書に書いた」「テレビで発言した」のふたつの記述あり)。彼女はお嬢様系天然が入っていて、安倍昭恵とちょっとキャラがかぶるのですが、これもプロパガンダの後遺症かもしれない。

やがて戦争になる頃には紙面もナチス支配が強まり、戦時色が強まっていきます。

※上は「BIZ」1926年第1号。ヴァイマル共和国時代らしいキャバレーの写真。下は1936年オリンピック特集号

 

 

輝きと恐怖—第三帝国のファッション

 

vivanon_sentence宣伝省の巧みさがよく出ているのはファッションです。

以下を御覧ください。

 

 

 

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