亡命先から戻ってみたらゲッベルスの子分ばかり—ゲッベルスは天才[7]-(松沢呉一)
「あの「抵抗運動の闘士」は反ユダヤ主義の扇動記事を満載する雑誌の編集長だった—ゲッベルスは天才[6]」の続きです。
国外生活から戻ったジャーナリストたち
敗戦後のドイツでは、しばらくの間、仕事にならなかったでしょうが、大半のジャーナリストはまもなく復帰して、戦後のメディアの中心的存在となっていきます。
彼らはヒトラー、ゲッベルス、ヒムラー、ゲーリング、ハイドリヒらの悪行を暴き、アウシュヴィッツでどれだけひどいことをやったのかを書きたてます。そこには贖罪意識や恨みもあったでしょうけど、同時に国民一人一人の責任をあいまいにして、一部の狂人たちに責を負わせることはジャーナリスト個人の責任を回避するのに都合がよく、国民にとっても都合がよかったのです。戦中はナチスのニーズに合わせ、戦後は国民のニーズに合わせて生き延びました。
新聞社や雑誌社、映画会社では、国外に脱出した、もっともナチスを嫌悪した人々、もっとも弾圧された人々を迎え入れるのですが、彼らは自分のような人間は少数派だったと告白しています。つまりは周りはナチス支持の記事を作り、ナチスの党員だったような人々ばかりだったのです。
画家で言えばジョージ・グロス、写真家で言えばヘルムート・ニュートンのように、直接言語で表現するわけではない表現者には、1933年に国外に脱出して、亡命先で成功した人もいますが(どちらも米国に脱出)、ジョージ・グロスの場合はすでに知名度があったわけで、そうじゃない人たちが黙っていて依頼があるはずもなく、黙っていて画商が扱ってくれるはずもなく、画家であっても無名であれば国外でやっていくことは難しかったでしょう(ジョージ・グロスの場合は成功と言っても米国での作品はあまり評価されていないですけど)。
まして、言葉を表現手段とする編集者や記者では難しく、亡命先で自殺したり、病死した人も少なくなく、やっと戻ってきたらナチ党員や党員じゃなくてもヨイショ記事を書いていた人、ユダヤ排斥の扇動記事を書いていた人ばかりは辛い。しかし、これが現実。
中には「あいつは逃げた」と陰口を叩くのもいたでしょうし。毎度言っているように、責任のある人以外、逃げられる人は逃げればよく、責めてはいけないけれども、逃げずにナチズムに取り入った人たちは「私は最後まで闘った」という自己正当化の反動として責めそうです。
※Helmut Newton「Private Property」
戦前の宣伝省・戦後の情報省
結局、法曹界でも財界でも官僚でもアカデミズムでも、ナチスからの流れを断ち切ることができなかったのと同じことがジャーナリズムでも起きました。ナチスを生んだ社会は温存され、人で見ると戦前と戦後はそのままつながっています。
そういう人たちを完全に排除すると、どの世界でも人材不足が起きてしまって、ドイツは再興できず、西ドイツが共産主義の防波堤になることができないという西側社会の思惑が招いた結果です。
そういうジャーナリストたちが戦後は政府広報組織に入り込んだことをノルベルト・フライ/ヨハネス・シュミッツ著『ヒトラー独裁下のジャーナリストたち』は指摘し、広報以外でも、政府組織に入り込んだ例も多数。
1953年には、こういった人脈が「情報省」を新設しようとしていることを「シュピーゲル」誌が暴露して、宣伝省復活を嗅ぎとった人々によって猛然と抗議が巻き起こって中止に追い込んでいます。ナチズム復活を狙ったものではないにしても懲りてない(情報省がどういうものか検索してみたのですが、ネットではよくわかりませんでした)。
こういった復帰の際に、一部にナチス時代の自分の書いたことを反省する者たちがいても、多くの人たちはナチス時代に何をしたのかを隠しました。ルート・アンドレアス=フリードリッヒのように。
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