松沢呉一のビバノン・ライフ

乾貴士のナイスなギャグか、アジア人差別か—心の内務省を抑えろ(ボツ編)-(松沢呉一)

軽蔑の言葉より利用お断りの方が重い—心の内務省を抑えろ[23]」の続きとして書いたものです。

「心の内務省を抑えろ」シリーズは、人種や肌の色によって利用を断ったり、雇用を断ったり、労働条件を変えたりするような「行為としての差別」と違い、「表現としての差別」は慎重な判断が求められるということを説明する趣旨で、最後に例題を出して「どう判断したらいいのか」を考えてもらって終わる予定でした。

ふたつ例題を考えていて、どちらも国外の表現物だったのですが、ふたつめの例題が難しすぎて、私自身、判断ができず、「時間を置いて考えなおした方がいいな」というのでペンディングにし、そのままになりました。シリーズも終われていません。

今考えてもやっぱりわからんです。批判も擁護も出ていて、世界の人が頭を使っても結論は出ていない状態じゃなかろうか。結論が出せない以上、規制すべきではありません。「いかに判断が難しいのか」の例としてそのまま出してもいいのですけど、ひとまず私なりの結論が出せているひとつめの例題だけ出しておきます。

時間が経ちすぎましたが、「メタな表現は判断が難しい」「フェイズの違いを区別すべし」という点が理解しやすい例題です。チーム名等すべて当時のものです。

このシリーズは「ネトウヨ春(夏)のBAN祭りからスピンアウトしたものなので、図版がない時は祭りの写真を使っています。

 

 

 

丁寧に考える人

 

vivanon_sentenceこれはいい記事でした。

 

 

フットボリスタ「乾に「目を開けろ!」は人種差別?スペインに住む、いち日本人の見解」

 

 

どこがいいのかというと、たった10秒程度の動画について、4,000文字ほど使って、差別に当たるかどうかを検討している点です。筆者の木村浩嗣氏はひとつひとつ検討をしないと結論が出せないことをよくわかっています。この筆者が性格的に異常ってわけではなくて、こういうものなのです。

その判断をする際の自分のポイントを決めているのもいいなあと思いました。どっかからもってきた基準かもしれないけれど、差別か否かを決定する人はそれぞれにこのようなチェックポイントを設定した方がいいとも思います。その検討をしてから意見を言うようにしたい。

では、その問題の動画。

 

 

この動画を見て、すぐに結論を出せた人の大多数は何も検討をしていないと思います。もちろん、「このくらいはいいだろ」といった程度のことくらいは言えますけど、直観なんてものは信用できないし、直観が結論になるほど、表現における差別の判断は簡単ではありません。直観で決定できるものもありますけど、この場合は無理。

木村浩嗣氏の記事に共感したのはその姿勢であって、内容については「そこは違うのでは?」と思った点が複数ありました。私自身、結論の「無罪」という点については同意するのですが、条件つきです。

 

 

メタな表現は判断が難しい

 

vivanon_sentence「ビバノン」でもこれに類する話を何度か取り上げているように、とくに冗談としての表現は判断が難しい。ヘイトスピーチに関する法でもしばしば冗談は例外として対象から外されます。当然という思いもありながら、これも微妙な点があります。「冗談だったらどこで何を言ってもいいのか」という問題です。

差別という現象、あるいは差別する人を笑い飛ばすのは、差別を無力化する有力な方法であり、以前から書いているように私もやることがあって、私の周りでなされるところを見ることもあります。

これはメタな表現です。「アジア人は目が細い」というステロタイプな見方を踏まえている。あるいはそれに基づく揶揄表現を踏まえて笑いにしています。

この場ではそれが成立していることは明らかであり、すでに「お約束のギャグ」として定着しているであろうことまで想像できます。

その範囲において木村浩嗣氏の「無罪」という結論に同意します。

しかし、やりとりをしている人たちの間、その場にいる人たちすべての間では、ただの冗談として通用したとしても、この動画を外に向けて出すのはまた別のフェイズになって、その動画を見た人がどう思うのかについては木村浩嗣氏も「あなたが人種差別だ、と受け取ったのならそうであり」としていて、これについては判断放棄をしているようにも見えます。

この先は私がやっておきます。

 

 

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