ムスリム女性が「自分の意思でつけている」と主張することとベール禁止の関係—ムスリムの女性が頭部を隠すことの議論を整理する[付録編1]-(松沢呉一)
「学校での着用禁止は賛成、公道での着用禁止は反対—ムスリムの女性が頭部を隠すことの議論を整理する[3]」の続きとして書いたものです。今年の2月のものなので、比較的最近のボツ記事です。なんでボツにしたのかというと、何を論じているのかわかってもらえそうにないためです。私自身が何を論じているのかよくわからない(笑)。
ベールの禁止は「イスラムの女性がベールを強いられているから」という理由によるものであることを前提にして、イスラムの女性から「強いられているのではなく、自分の意思でつけているのだ」という反論が出ていて、私はこれを却下して、公立学校でのベール着用を禁止するフランスのライシテ支持ということをここまで書いています。それ以外の公共の場での禁止には反対。これに対して、セックスワーク否定派から、「セックスワーカーが自分の意思でやっていると言っても却下していいんだな」という難癖がついた場合の反論を書いたものです。
このシリーズはそんなに読んでいる人がいないので、難癖がつくとは思えないのですが、その主張を却下することの意味を整理しておかないと、自分自身が落ち着かない。こんなもんを読む人はいないだろうと思ってボツにしましたが、書き添えたデータは興味深いので、出すだけ出しておくかと。
そんなに古くはなっていないので、「ボツ編」ではなく、「付録編」で出します。ここまでを丁寧に読んでいる人じゃないと意味がわからず、読んでいても、そんなに大事な内容ではないので、読まなくていいと思います。
女に意思はないと考える人々
ここまでムスリムのベール(頭部を覆う布をベールと総称します)禁止について整理して、私の考えも整理しました。
丁寧にやったつもりですが、ヨーロッパでの禁止措置に対してムスリム女性から出ている「私は強制されているのではなく、自分の意思でベールを着用しているのだ」との主張を却下してますので、「自分の意思だ」と言っているにもかかわらず、「それは自分の意思ではなくて強制されているのだ」と私が決めつけているのだと誤解する人がいるかもしれない。
「ビバノン」は講読している人だけが読んでいるのではないので、一部をとらえてそう判断する人が出かねず、その部分について改めて説明しておきます。説明しても、全員が全文を読むわけではないのでキリがないですけど。
おっぱい募金の際、「自分の意思でやっている」と語るセックスワーカーに対して、「そう思わされているだけだ」と言ってのける人たちが湧いていました。
私は参加者に自分の意思で出たことの確認をとってますが、そいつらはそんなことはまるでやっていない。根拠がないまま、他者の意思を否定して、「言わされているのだ」「思わされているのだ」との決めつけをやったことを何度でも確認します。
「女には自分の意思などない。ただの人形である」との信念を披露するのは、その人物がどれだけの差別思想の持ち主であるのかを明らかにするという点で有意義ではありますが、こんな人間どもに人権を語る資格なし。
ここまで見てきた独裁政権下でのプロテストに対しては、必ずと言っていいほど、独裁者側は「あれは外部の勢力に操られている」と言います。香港のプロテストに対しても、ベラルーシのプロテストに対しても、ロシアのプロテストに対しても、ウガンダのプロテストに対してもそのような決めつけがなされています。
実際に外部勢力からの支援や影響を受けているケースは多々あるでしょうけど、強大な独裁政治と闘う時に援助してくれるところがあれば援助してもらうでしょうよ。支援を受けていても正しいことは正しいのだし、外部勢力からの支援を受けていなくても、正しくないことは正しくない。
「何者かに操られている」という決めつけは、気に食わないものを否定する便利な言葉なのです。
※Wikipediaより、東アラビア半島のバトゥーラ(البطولة)と呼ばれる金属マスク。髪の毛+鼻を美しいとする文化圏なのですね。自動ドアだと勘違いしてガラスに激突した時や野球観戦中にボールが顔に当たった時も鼻が守られます。これはいいかもと思ってしまいましたが、金属アレルギーの人は困ります。とは言え、現在はほとんど使用されていないとのことです。
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