松沢呉一のビバノン・ライフ

伊藤野枝の「感情の自由」を否定した平塚らいてう—女言葉の一世紀[165]-(松沢呉一)

「女は怒ってはいけない」という規範を担った女言葉を女学校が浸透させた—女言葉の一世紀[164]」の続きです。図版は残り物を適当に使用してます。

 

 

 

平塚らいてうは伊藤野枝の「感情の自由」を否定した

 

vivanon_sentence「婦人運動」の「婦人」は、表層的には「女一般」の意味ですが、内実はもっぱら「山の手婦人」の意味であったというのが私の見方です(「「主婦」と「主人」は対の言葉—主婦の歴史・婦人の歴史[上]」「「婦人」という言葉に高級感がある理由—主婦の歴史・婦人の歴史[中]」「浅知恵の婦人議員が消した婦人という言葉—主婦の歴史・婦人の歴史[下]」を参照のこと)。

つまり、好んで女言葉を使うような層です。ここから外れる人たちもいて、その筆頭は伊藤野枝です。伊藤野枝も文章であえて男を感じさせるような言葉は使用してませんが、言葉は強く、喧嘩っ早くて攻撃的であり、その点は男と変わらない文章を書きました。

伊藤野枝は、自分が通った女学校は所詮それまでの道徳を維持するものでしかないことにも気づいていたため、そこに執着はなく、女学校言葉たる女言葉にも執着はなし。

伊藤野枝の思想を切り捨てた平塚らいてうですが、伊藤野枝が感情を剥き出しにするところは否定したり、肯定したり。

平塚らいてうの伊藤野枝評は、生前と死後とでぶれていて、死後の評価は、自己保身が混じってきて当てにならないと言えますが、以下は、伊藤野枝の死後書かれた平塚らいてうの「自然女伊藤野枝さん」の冒頭部分。

 

 

感情の自由、思想の独立、個性の尊重といふやうなことは明治の終りから大正の始め我が婦人運動の初期に於て私共がしきりに要求したことですが、丁度その頃私の前に突然現はれて来た野枝さんは日本婦人には珍しいほどに感情の自由性を生れ乍らもっている人でした。私が最初野枝さんに引きつけられ、あの人の快活なキビキビとした性格に興味と愛をもったのもこのためでした。全くあの人は自分を偽ることの出来ない自由な感情に行き、そのために肉身(ママ)を捨て、友と離れ、世間にそむき、夫と二人の子供を捨て、苦しみもし、悲しみもし、怒りもし、戦ひもし、酔ひもしました。

 

 

とりわけ武家社会では、女は感情を露わにすることさえ封じられてきて、それを取り戻そうとしたのが「感情の自由」ってことでしょう。

その「感情の自由」を伊藤野枝は誰に言われるともなく身につけ、実践してきました。だから、文章でも怒りを露にする。

※『コンマーシャルガイド』(昭和五年)より化粧品の広告。モデルは女優かも。前回も書いたように、明治から大正にかけては歯を見せて笑う写真さえ少ないのですが(男女ともに)、この頃には女優たちの笑顔の写真が出るようになっていました。その中ではかえって異例にも見える仏頂面ですが、今度はこれが最新になっていたのかもしれないし、女優のキャラかもしれない。「広告での笑顔」というテーマは改めてやらないとなんとも言えない。着色しました。

 

 

伊藤野枝の感情の表出を否定する平塚らいてう

 

vivanon_sentenceここでは「感情の自由」の実践を肯定しているように書く平塚らいてうですが、生前は伊藤野枝の書く文章には否定的です。以下は「伊藤野枝さんの歩いた道」より。

 

 

従って今日これらのものを読んで見ますと、いかにも彼女自身の性格を露骨に現はした、痛快と言えば至って痛快なものには相違ありませんが、あまりに過度な反発的情熱のために、相手の言葉を否定することのみ急いで、ともすれば単なる罵言のための罵言や、悪意的な、言葉の上の矛盾の指摘や、あげ足とりに堕した様な無内容や、上調子な部分が徒らに多くを占めてゐるため全体として非常に反省的態度を欠いたものに見えるばかりか、残念なことには肝心な彼女自身の積極的な考へやその主義主張が殆どどこにも語られて居りませんので一見非常に奮闘的態度のやうに見えながら、その実卑怯なものになって仕舞ってゐるのが多いやうにも思われます。そしてそのため彼女の折角の奮闘もたとへ非難者の若しくは誤解者の口を一時減らすことは出来たとしても、「単なる罵言や情熱は何ものをも産まない」といぬ言葉の如く、何の効果も持ち来さないものであったやうに思はれます。

 

 

 

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