松沢呉一のビバノン・ライフ

女が女を縛り付けようとする仕組み—女言葉の一世紀[166](最終回)-(松沢呉一)

伊藤野枝の「感情の自由」を否定した平塚らいてう—女言葉の一世紀[165]」の続きです。図版は残り物を適当に使ってます。

 

 

 

なぜ男の教育者の方がまだしも寛大なのか

 

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感情の表出さえも禁じた時代はホントにひどいと思うし、これは典型的な性差別です。それを担ったのは女言葉であり、女学校はこれを浸透させました。

岩野泡鳴の自由恋愛論とその実践—女言葉の一世紀 155」に書いたように、この流れに対抗するリベラルな考え方をする教育者は男に傾きがあります。前回見た伊賀駒吉郎は女学校の校長ながら女子教育の改革を提唱し、山脇房子の夫である山脇玄は早くから婦人参政権に賛同する人物であり、三輪田女学校の校長だった三輪田元道が限界はあれども良妻賢母を批判していました

よりリベラルな存在として文化学院の西村伊作がおります。西村伊作が戦前書いたものは読んだことがなく、国会図書館にもないのですが、戦後書いたものを読む限り、徹底した個人主義者であり、戦前でも良妻賢母派教育家と同じようなことを言っていたとはとうてい思えません。

文化学院与謝野晶子も関わっていたのですから、凡百の学校とは違ったでしょうし、この点においては与謝野晶子も教育家であり、リベラルな女性教育家が絶無というわけではない。

女子医の吉岡彌生は国家主義の立場からですが、女の社会進出を積極的に提唱し、同じく国家主義の立場から婦人参政権にも賛成してしました。リベラリストではなく、フェミニストでもないですが、私はこの人を全否定はできません。

また、男の教育者でも棚橋絢子嘉悦孝子、山脇房子のようなタイプはいたでしょうし、文部省がまさにそうだったわけですけど、穏健な立場をとる女の教育者があまり見当たりません。とりわけ積極的な発言をしていた女学校の女流教育家たちはたいていゴリゴリの良妻賢母派です。

なぜこうなってしまうのかがずっと気になっているのですが、未だにはっきりとした答えを私は持っていません。

仮の答えを出しておくと、女は女の作法を内面化して、自分自身、そこからはみ出すことを忌避し、「私がこうなのは社会の要請なのだ」と自己肯定し、自身のその価値観を絶対視することによって、そこからはみ出すと叩かれると恐れる。教育家として社会進出していることで叩かれないようにことさらに女の作法を強調したのではないか。社会に迎合してうまいことやっていこうとする人ほどそうなって、社会に恭順な姿勢をアピールすべく、同性の抑圧に加担していくということだろうと見ています。

その点、男はその中にはいないですから、「言葉も行動も生き方も男と同じでいいんちゃうの」と言ってのけられます。無責任とも言えますが、この姿勢の方が正しかったことは明らかでしょう。

女の教育家がしばしば婦人参政権を否定していた一方で、女優という「はしたない女」を選択した森律子サフラジェットを肯定しました。そのために行ったわけではないですが、ロンドンまで行ってサフラジェットを肯定した日本人は彼女だけではないか。婦人参政権までは肯定しても、「望ましき女」に留まる人でサフラジェットを肯定していた人を私は知りません。森律子はもっと評価されていい人です。

戦後大挙して「望ましき女」という枠組みをぶち壊そうとしたのはパンパンたちでしたが、それを潰そうとし、赤線までを潰したのは女の議員たちと婦人活動家、宗教道徳家たちでした。女性の教育家たちもそちら側にいたでしょう。社会的ステイタスを求める女たちは「はしたない女」たちを否定し、制裁する側に回りたがります。

今もこれが繰り返されています。

※下の写真は樟蔭学園のサイトより伊賀駒吉郎

 

 

枠内に留まる女たちを守り、枠からはみ出す女を叩く女たち

 

vivanon_sentence「男/女」という属性による二項対立の図式から離れると、言葉遣いの問題は別の様相を呈してきます。「女は丁寧な言葉遣いをしなければならない」「女は攻撃的であってはならない」とする男や女と、「女も男と同じでいいだろ」「女も喧嘩する時は乱暴になるに決まっているだろ」とするふたつの層に分けられるのであって、男女という属性で区切れない。むしろ地位の高いところにいる女の方が女の作法に執着し、それを維持し、他者にもそれを強いてきました。

このシリーズの始まりとなった朝日新聞の「(よこしまTV)気になった言葉遣い」は、明言しておらずとも女言葉をよしとして、そこからはみ出す言葉を否定する立場の記事です。

女の乱暴な言葉遣いだけを切り取って問題にし、女が怒りを露にしているシーンの写真を掲載する。それを書いたのは中山治美という女のジャーナリストでした。

対して、このドラマの脚本を担当したバカリズムは、テレビという虚構の世界に残る、歴史を踏まえた「女言葉」ではなく、現実の女言葉をドラマに導入しました。

 

 

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