松沢呉一のビバノン・ライフ

ベールの意思・セックスワークの意思—ムスリムの女性が頭部を隠すことの議論を整理する[付録編2]-(松沢呉一)

ムスリム女性が「自分の意思でつけている」と主張することとベール禁止の関係—ムスリムの女性が頭部を隠すことの議論を整理する[付録編1]」の続きです。

 

 

 

フランスのライシテによる法律の考え方

 

vivanon_sentenceフランスの公立学校における宗教的シンボルに関する法律によるベールの禁止は、「本人の意思か否か」を要件とするのではなく、「宗教的標章か否か」が要件です。

本人の意思であっても、信仰対象や信仰の道具になると判断されるもの、それに関わる衣裳や装飾を公立学校に持ち込んではいけない。大きな十字架、キリストやマリア像、キッパ(ユダヤ教の小さな帽子)、仏壇、鳥居など。客観的にそう見なされることが禁止の対象であり、持ち込んだ人の内面的動機はどうでもいい。それぞれクリスチャンではなく、ユダヤ教徒でなく、仏教徒ではなくても禁止であり、ムスリムではない人がペールをしても対象です。

その意味で、本人の意思か否かは問われないと説明しました。意思の存在を否定しているのではなく、「そこは問題になるのではない」という意味での却下です。

この考え方に批判的な人たちは、ムスリムが圧倒的マイノリティであることを想定しているのだろうと思われますが、外国人の受け入れを進めてきたヨーロッパの国では、住民の多数派がムスリムであるケースが出てきています。

同国人が同じ場所に集まるのは日本でもすでに見られることで、たとえば中央区の築地にムスリム・コミュニティが出来て、公立小学校の生徒がムスリムになって、女子はベールをして登校するとします。生徒が減っているため、あっさり過半数がベール着用になる。

日本人の生徒でもそれを真似するのが出てきて、宗教団体に属する親たちは、そこに巻き込まれないように、子どもたちに大きなマリア像、数珠、大川隆法の写真、韓国のツボ、鰯の頭などを持っていかせます。

これが「多様性のある良い社会」か? こういう対立や多数派支配を避けるために、公立の学校では宗教的表示はやめましょうってことです。

※2020年5月31日「Saudi Gazette」コロナ禍でのベールの扱いについては国によって違っていて、マスク着用が義務化されたサウジアラビアでは口と鼻が隠されていればマスク着用とみなされるとのこと。一方で、通気性のいい素材が多いベールではウイルスを遮断できないため、ベールはマスクと認められないとしている国もあります。それらの国ではベールとは別に医療用マスクをしていますが、口を覆うブルカ、ニカブだと、下にマスクをしているかどうかわからんです。完全に遮断することはできないとして、安いマスクを基準にするなら唾液の飛散を防げればいいのですから、なにかしらで覆っていればいいでしょう。前回見た金属マスク、バトゥーラも口が隠れているからOKだと思います。

 

 

強制力がある場合に、特定の場所で強制力を排除するライシテ

 

vivanon_sentence法的にはそういうことになり、宗教規範が強いられて、個人の判断ができなくなったり、他者に影響して個の判断を阻害しかねないことを防ぐための普遍主義的施策です。

広く言えばそこに強制力が働いているケースがあり得ることが前提にはなっていましょうから、些か飛躍するとは言え、「強制力の排除」という意味合いがあって、その意味合いのもとで、「自分の意思である」という申告を否定していると言えなくもないので、これを「セックスワークは自分の意思でやっている」と語ることの否定に転用できるのかどうか検討しておきましょう。

ライシテによるベール禁止とセックスワークの禁止を重ねるのであれば、まずイランのようにベールを法で強いられ、それに反すると懲役刑になる国と同様に、セックスワークを法で強いられ、それに反すると懲役刑になる国の存在を挙げる必要があります。そのくらいに強制力があることの例示です。

 

 

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