松沢呉一のビバノン・ライフ

ポーランドのカトリックは何を求め、フェミニストたちは何を求めているのか—ポストコロナのプロテスト[ボツ編7]-(松沢呉一)

ポーランドのデスボイス系フェミニストを支持する—ポストコロナのプロテスト[ボツ編6]」の続きです。

 

 

論点は中絶そのものの是非

 

vivanon_sentence前回確認した経緯を見ればわかるように、カトリック=PiS勢力が求めているのは、最初から中絶の全面禁止であり、フェミニスト側が求めているのは、安全な中絶の合法化です。その考えから、カトリックは抜け道になっていた「胎児の病気や異常」という理由を削除することを求め、フェミニスト側はそれを守ろうとしたのであって、「胎児の病気や異常」による中絶だけを取り上げて合法化したいのではないですから、論点は優生思想ではありません。論点は中絶の是非そのものです。優生思想が論点であるように見せているのはカトリック側です。宗教というのは、自分らの正義のためにはこういったまやかしは平気の平左です。

事実、カトリック=PiS勢力は「自己決定権は認められるべきだが、胎児は自己決定権に含まれない」と主張しています。自己決定は他者の権利を侵害しない範囲で認められるものであり、中絶は他者たる胎児の生きる権利を侵害するものだと。

当然これは中絶の全面禁止を求める論理であり、優生思想は関係がなく、フェミニスト側も経緯として撤廃に反対するしかなくなっただけで、そこを特化して守れとやっているわけではありません。

というのがポーランドでの議論だと思います。

戦いは今年になっても続きます。

1月29日。

 

 

大規模な行動としてはこれが最後だったかと思います。

動画を観ていると、ニュース番組ではしばしば音声を消したり、ピー音を入れたりしています。これは、彼女たちが好んで「汚い言葉」「下品な言葉」を使用しているためです。これは戦術のひとつです。女たちを尊重しない政府やカトリックに対しては、上品な言葉を返す必要がないということですが、「汚い言葉」「怒りの言葉」を使用するのは、既存の道徳に対する異議申立ての意味合いが含まれていましょう。これはプッシー・ライオットにも見られます。日本ではいまなお女が女の汚い言葉、怒りの言葉を非難することがまかり通っているのと大違いです。

 

 

障害児を中絶することの問題は優生思想とは無関係

 

vivanon_sentenceということなので、「胎児の病気や異常」を理由とする中絶を優生思想としてくくることは正しいのか否かを論じる必要はないのですが、ついでにやっておきます。

今まで何度も書いていますが、私が「売春するかしないかは個人が決定すればいい」と考えるようになったきっかけは1970年代から80年代にかけて盛り上がった優生保護法反対の運動にあります。「生む生まないは女が決める」というフレーズがその時に掲げられていて、その延長に「売る売らないは女が決める」という考えが出てきます。正確には女という属性をもつ集団が決定するのではなく、個人が決定していいわけです。自己決定。

その視点からとらえた時に「胎児の病気や異常」を理由とする中絶を優生思想としてくくることはふたつの点で私は間違いだと考えます。

優生思想はその子どもの劣悪な遺伝子が次の世代に残り、民族なり国民なりの総体の質が低下するという考えに基づきます。

しかし、夫婦が自分の子どもに障害があることを避けたがるのは、ほとんどの場合、「育児負担が大きくなる」といった夫婦間の問題に留まります。「近所の公立学校では受け入れられないのではないか」「受け入れてくれる学校までの送り迎えをどうするか」「スロープのあるところに引っ越すか、家を改装しなければならない」といった夫婦、家族の負担です。

 

 

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