松沢呉一のビバノン・ライフ

顕在的姿勢と潜在的姿勢とのズレ—「ライプツィヒ権威主義研究」から考えたこと[3]-(松沢呉一)

「難民受け入れ賛成だが、外国人が隣に来て欲しくない」という人たち—「ライプツィヒ権威主義研究」から考えたこと[2]」の続きです。

 

 

 

コミュニティの結束が増すと閉鎖性も増すことがある

 

vivanon_sentence新大久保のコリアン・コミュニティについては少しはわかってますが、それ以外になると、とんとわからない。

西葛西の団地では、インドの子どもたちと日本の子どもたちが交わらずに遊んでいる光景を見ました。同じ空間にいるのに交わらない。たしかインド人の学校がもうできているはずで、そのせいじゃないかとも思いましたが、たまたまかもしれないので、西葛西の子どもらがつねに別々で遊んでいるのかどうかは不明。

その分、インド・コミュニティの人たちは地元に受け入れられるように祭りをやったりもしていて、日本側もそういう努力が必須であり、それができないと外国人受け入れはうまくいかない。

たしか目黒区だったと思うのですが、黒い子と白い子と黄色い子たちが一緒に遊んでいるところを見ていて、私もその子らと少し遊んでます。そこまでは聞かなかったですが、学校が一緒なのかもしれないし、別々でも公園では友だちなのかもしれない。

インターナショナルスクールみたいなところに通っている子の中には、日本語が上手ではない子どもがいて、そうすると日本の子どもたちの中に入っていけず、ポツリと一人で遊んでいたりします。

「ヘビを見たことない?」と声をかけたこともあるのですが、日本語がわからないみたいで、首を振るだけで何もしゃべりませんでした。誘拐されると思ったのかもしれないし、日本に来たばかりだったのかとも思うのですが、1年2年で国に帰るビジネスマンの子どもはそのままでもいいとして、長年住むんだったらまずいんじゃなかろうか。

子どもらの中でこういう交流がどう形成されるのかの調査も読みたい。

国籍や肌の色を超えて交流する子どもたちは外国人に親近感を抱くようになり、交流しない子どもたちは嫌悪感や恐怖心を増大させている可能性もあり、大人も同じ。後者の個人意識上の潜在的差別性は、何かあった時に浮上しかねない。

外国人コミュニティが強固になるほど、文化も風習も考え方も温存されやすくなります。いい面があるのと同時に、言葉が通じなくなる人たちが増えてきて、ホモフォビアのような好ましくない感情も維持されます。コミュニティが強固ではないうちに解消することを始めておかないと、ヨーロッパのように、ムスリムがユダヤ人攻撃をするようなことが起きてしまいます。

日本でもゲイバーがアフリカ人たちやムスリムに焼き討ちされたらイヤだべ。

※新大久保文化通り脇のハラルフード屋。前はここは地味にやっていたのですが、最近は看板も出して、入口に商品を並べて攻めの姿勢を見せてます。

 

 

「Refgees Welcome」に乗りきれなかった

 

vivanon_sentenceといった考えは今に始まったことではなく、ボツ記事を見ていたら、ずーっと前から書いてました。

6年か7年前、ヨーロッパの動きに呼応して、「Refgees Welcome」「難民歓迎」のプラカードやバナーを掲げる人たちがいて、もちろん、それに反対はしないのだけれど、正直私は乗り切れず、私自身ではそれを主張したことありません。

これだけすでに外国人が入っていて、たとえば欧米からの人たちや韓国人、台湾人、中国人との接点はあっても、難民を受け入れるとなると、もっともありえるのはロヒンギャの人たちになってきます。

ミャンマーについては少し接点がありますが、現状私はロヒンギャの人たちと交流できるほどの知識はないし、数は多くないにせよ、すでに日本にいるのに私は接点がない。その状態で、「難民を受け入れろ」と言える資格はないなと思ってました。

私は顕在的な姿勢と潜在的な姿勢とのズレを認識していて、そのズレを埋めないと気持ちが悪い。

 

 

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