松沢呉一のビバノン・ライフ

動物虐待の話題で宅八郎の言葉を思い出した—動物のバイアス・女子供のバイアス[上]-(松沢呉一)

アクセス数で報道の価値が決定する時代に—公開本数3,000本達成[下]」と「なんで私が「アニマル・レスキュー動画に気をつけろ」なんて言わなければならんのかと思いつつ言っておく」と「ベトナムの犬食事情から考えてもアジアン・ペット・レスキュー・センターは寄付金集めのインチキ—無思慮な寄付は悪人を生み、動物虐待を加速する」と「恒大集団の破綻や中国人による日本での土地買い漁りに触れつつ、武漢ウイルス研究所を擁護したピーター・ダザックとその仲間の科学者たちの行動を確認する」のそれぞれからゆるく続いています。

ここまでに説明したがどうか忘れましたが、通常私は「子ども」と書くのに、「女子供」だと「子供」です。「女子ども」とすると、「じょしども」と読めてしまうためです。

 

 

宅八郎が虐待について語った言葉

 

vivanon_sentenceなんで私が「アニマル・レスキュー動画に気をつけろ」なんて言わなければならんのかと思いつつ言っておく」を書いている時に、ペット虐待からの連想で、ふと宅八郎の ことを考えました。

長らく交流が絶えていたので、宅八郎が亡くなったことを知っても、そう強い感慨があったわけではなくて、「ビバノン」に書いたことがその時の思いのほとんどすべてなのですが、あれ以来、時々思い出すことがあります。「こんなこともあったなあ」と。

今回思い出したのは、彼が言っていたこんな言葉。

「人間が殴られているところを見てもなんとも思わないけど、動物の虐待は耐えられない」

原稿にも書いていたかもしれないけれど、私は長電話をしている時にこの発言を聞きました。

動物虐待がテーマだったのではなく、メインのテーマは人間の虐待だったと思います。「人が虐待されることに対して自分は無反応になりやすい」ということを吐露したものだったはず。

あるいは誰かを追い詰めていく時に手加減をしない自分の性格についての説明だったのかもしれない。「犬や猫だったら必要以上に追い詰めないけれど、人をどこまでも追い詰めることに抵抗はないよ」と。

すべてモヤがかかっていて、この前にどういうやりとりがあったのか、私はこれに対してどんなことを言ったのか曖昧ですけど、私は以下のようなことを言ったのではなかろうか(こんなに整理されていたわけはないですが、宅八郎としばらくこの話をしていて、言うとしたら大要こんな内容だったと思います)。

「動物の虐待が耐えられないのはわかる。オレの中にもその感覚はある。犬や猫はほとんどの場合、人間よりずっと弱くて、人間に加護されて生きている。犬種によっては飼い主を噛み殺せるけど、飼い主を殺したら餌が得られなくなって自分も死ぬ。飼い主を殺したことが他の人間にバレたらやっぱり殺される。どっちにしても自分も死んで引き分けに持ち込むのがせいぜいで、ほとんどの場合は負けしかない。そもそも複雑なことを考えられるほど頭がよくない。その絶対的な不均衡のもとでの虐待はあまりに卑怯で耐えられない。その点、人間は状況によっては逃げられるし、助けを求められる。相手が悪いのであれば、警察に行って捕まえてもらえる。腕力がなくても包丁で刺して逆襲もできる。どうしたらいいのか自分で考えられる。解決の手段が備わっているのにそれを使わないのもまた自分の意思に思えてしまうので、動物よりもスルーできるんだと思う。ただ、つねにその反撃ができるわけではきなくて、とくに子どもはそう。幼い子どもが親に虐待されるのは耐え難い。犬や猫と一緒で抵抗しようがない。もっと年齢が上でも判断力は大人と同じではない。子どもが家を出たらメシが食えず、寝るところがない。警察に行くのも怖い。児童相談所に行く知恵もない。学校でも複数の相手にいじめられたら抵抗することは難しい。教師に言っても相手にしてくれなかったら逃げ場がない。この世代は動物に近づいて、虐待は痛ましい」

今と考えていることは一緒です。

 

 

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