松沢呉一のビバノン・ライフ

メタ視力がないことが問題なのでなく、それを自覚できないことが問題—メタ視力とは?[下]-(松沢呉一)

「今ここにいる私」とは別の視点—メタ視力とは?[上]」の続きです。

 

 

地図とメタ視力

 

vivanon_sentence私は「メタ視力」を「“今ここにいる私”以外の視点を持つ能力」と定義しています。今いる場所は10年前はどう見えていたのか。10年後はどうなるか。ここではない米国ではどう見えるか、モロッコではどう見えるか。ここではない場所は今どうなっているのか。私ではないあなたや他の人からはどう見えるか。

時間軸や空間軸、人の軸を視点が移動するわけですけど、この移動には個性があり、能力差もあるのではないかというのがメタ視力の考え方です。

このメタ視力を理解するための例としてよく出していたのは地図の能力です。地図を読む能力が高い人はメタ視力があると単純には言えないのですが、「地表で見えるものしか見ていない人と地図上でそれを把握する人」との関係は「メタ視力のある人とない人」との関係に似ていますので、メタ視力がどういうものであるのかを理解するよすがになります。

一般に地図を読む能力の高い人は、現実の風景を見ている時も東西南北を意識して、脳内の地図に落とし込もうとします。つまり、同じ風景を見ていても、把握の仕方が違って、地図を読む能力が高い人の方が重層的なとらえ方をしています。

地図上で考える能力は空間的なメタ視力とも言えますが、時間軸のメタ視力や抽象的なメタ視力もあって、視力と同じくメタ視力にも個性があります。そういう能力を身につけることだけじゃなく、能力があること、あるいはないことを認識することが重要だと思っています。

メタ視力の弱い人を「メタ弱視」と呼んでいて、私自身は「メタ乱視」です。自分の意図ではなく小刻みに移動する。これは多動症気味なことと関係しているかもしれない。

私はよくシミュレーション癖があると書いてますが、これはメタ乱視のせいです。「もしこれが他の人だったら」「もしこれが私だったら」「もしこれがエチオピアだったら」「もしこれが日本だったら」「もしこれが江戸時代だったら」「もしこれが現在だったら」をつねに考えてしまいます。

戸定梨香の騒動でも、全国フェミニスト議員連盟とやらが、人並みのメタ視力を持ちあわせていれば、あるいは一人では無理でも、連盟メンバーが複数の視点を持ち寄れば、よもやあんな抗議はしなかったはずです。

歴史という視点があれば腹やへそを出すことを封じた戦前の人々は何を根拠にそうしたかわかるはず。海外の事例を探せば、スラットウォークに行き着くはず。あのVTuberを作り出している人々の視点に立てば、あのような表現が女であることの幅の広がりを生んでいることに気づけるはず。一般の人たちの意見に照らせば、あれをエロ表現だと決めつけると、自分たちが何もかもをエロ視線で見ているってことがバレるとおそれるはずなのです。

そのすべてが欠落した集団であり、「私の感覚」が世界の基準と思い込んだ人々にはそもそもメタな視点で検証することを期待するのは無理でした。その結果、「女の表現はすべてエロとしてとらえれらる道徳家」という集団が露わになったのでした。フェミニズムと無関係、むしろフェミニズムの敵です。

※中野を歩いていた6、7人のグループの1人。この辺には専門学校がいくつかあって、おそらくそこの生徒だと思われます。これがエロに見えるんか? この近くの路上では30歳くらいの女性のへそ出しも見ました。ジャケットを上に着ていたのですが、前を閉じてしなかったため、腕を上げた時に裾の短いTシャツから腹が出てました。状況次第ではおっさんでもあり得ます。こんなんがエロのわけないべ。

 

 

メタ視力がなくても困らない人もいる

 

vivanon_sentence人は自分が中心ですから、「今ここにいる私」の視点が大きいのは当然。その上で「今そこにいる他人」の視点が必要になることがありますし、「100年前の視点」「100年後の視点」「遠いどこかにいる他人」の視点も必要になることがあります。それがあるから「今ここ」の意味が見えてくる。

しかし、距離があればあるほど、自分とは別の視点は得にくい。100年前の視点を得るには歴史の知識や歴史観が必要。アフリカに住む人の視点を得るにはその国についての知識が必要。どちらも黙っていて得られるものではありません。事実の裏付けなく、よその国を利用しようとすると、「欧米ではこんなエロ雑誌は許されない」という虚言をばらまくことになります。ただの信用できない嘘つきになります。

メタな視点は自分ではない人、今ではない時制、ここではない場所への関心が必須であり、未知のものを知ろうとする姿勢が必須だし、それを得る努力や訓練も必要です。

階層で考えるとわかりやすくなる人もいるでしょう。1階から10階までのデパートがあって、上に行くほど鳥瞰になるとすると、上階の人は下の階を経過しているので、下のフロアで何を売っているのかわかる。10階にいる人たちはすべての階で何を売っているのか見渡せる。下の人たちは上で何を売っているのかわからない。これが虫瞰と鳥瞰の関係です。

「俯瞰で見ろ」という場合は「10階に上がって、全体を見渡せ」という意味です。

しかし、1階しかないデパートもあってよく、むしろ階段やエレベーターを使わなくてもいいので、その方がいい客もいましょう。

 

 

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