松沢呉一のビバノン・ライフ

田嶋陽子の個人主義は不徹底—田嶋陽子著『愛という名の支配』を褒めたり貶したり貶したり[11]-(松沢呉一)

田嶋陽子の「私のフェミニズム」という表現は「星占いフェミニズム」であることの告白—田嶋陽子著『愛という名の支配』を褒めたり貶したり貶したり[10]」の続きです。

今回も図版はこれを書いた2019年末に起きていた香港の民主化運動で闘っていた女子たちです。

 

 

田嶋陽子の個人主義

 

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フェミニズムの根底にあるのは個人主義です。ここを忘れてはいけない。

平塚らいてうが強い語調で書いた「矢島楫子氏と婦人矯風会の事業を論ず」の中で、矯風会は婦人運動ではない理由として、「婦人そのものの生活に対する個人主義的な深い自覚、言ひ換へれば人間である婦人の自己の尊厳、その欲望才能の価値の自覚に基づく思想、感情とは全然その源を異にした別種の流れ」であると指摘しています。

つまりは宗教道徳団体である矯風会は「個人主義的な深い自覚」に基づく自分らの婦人運動とは無関係だと断じているのです。その表層がいかに似ていても、個人主義に基づかない宗教道徳運動が婦人運動のわけがないのであって、矯風会の婦人参政権運動も婦人運動ではありません。一世紀前には成立していたこの論理が、今の時代には通用しなくなっている日本の一部フェミニズムの病理は相当に深刻。

ここにある「個人主義的な深い自覚」は私も婦人運動、すなわちフェミニズムの欠くべからざる要件であると信じていますし、これがあるフェミニズムに対しては私は共感します(少なくともその部分については)。

その平塚らいてうも個人主義に徹することができなかった点があって、そこを与謝野晶子に批判されるわけですが、与謝野晶子はより個人主義の立場にありました。

フェミニズムの根幹に個人主義があることは田嶋陽子もよくわかっていて、こう書いています。

 

当然とはいえ、近代社会と個人主義の成熟なくして、フェミニズムなどありえないのです。フェミニズムは、男からも女からも、高い個の成熟度を要求します。日本のフェミニズムが発展途上的な状況でまだ低迷しているとするなら、それは、日本人男女の個それ自体がまだ発展途上的な個だからです。

 

愛という名の支配』の中で無条件に同意できたのはここです。

フェミニズムは女という属性で規定されるのではなく、個で判断されることを目指すものというのが私の理解です。「女は〜」で否定されること、肯定されることを拒絶し、個の決定を尊重するものであることに異論はなく、私自身、たびたび書いてきたことです。

※11月20日付BBC 中文網(繁體)のFacebook投稿動画より。この動画は理大闘争をまとめたもの。これは昼です。催涙ガスの中に立つ女のプロテスター。スカートのように見えますが、たぶんスカートではありません。

 

 

自分で決定することの重要さも指摘しているのに

 

vivanon_sentence他にも田嶋陽子は個人主義っぽいことを言ってます。

 

私は、なにが正しいしとか正しくないとかは言えないけれど、とにかく、自分がどういう人生を生きたいか、自分でしっかり決めることが大切だと思っています。女だからといって制約されることがあってはいけません。女の人一人ひとりに、自分の生き方を選べる選択権と、それを決める自己決定権とがあるということです。

 

ここもおおむね賛成。同時に自分がどういう人生を生きたいかなんて考えないのも自由であり、それもまた選択ですから、尊重しなければいけません。他者にとってそれがくだらない選択であっても尊重するのが個人主義。

 

 

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