松沢呉一のビバノン・ライフ

売春はハードドラッグと似ている—ヴィルジニー・デパント著『キングコング・セオリー』[6]-(松沢呉一)

悪質な売春否定論者のやり口はフランスも日本も同じ—ヴィルジニー・デパント著『キングコング・セオリー』[5]」の続きです。

 

 

キングコングが持つ意味

 

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本書のタイトルに使用されている「キングコング」という言葉については第四章「キングコング・ガール」で詳しく説明されています。映画「キング・コング」(2005年版)をもとに、「男女の性別が分けられる以前の性のあり方を表している。メスともオスともつかない、人間と動物、大人と子ども、善と悪、原始と文明、白と黒のあわいの存在を体現している」としています。

 

 

 

 

2005年版は観てないですが、キング・コングはメスの人間に対する愛情があるので、オスだとばかり思ってました。しかし、友情かもしれないし、レズビアンかもしれないし。そういった不確定な状態。

つまりは普遍主義的な象徴として登場させていて、ヴィルジニー・デパントはおおむね普遍主義の立場から発言していると考えてよさそうです。

しかし、ヴィルジニー・デパントは売春をする際に「女らしさ」を身にまとうことの快楽を語っていて、そこに矛盾を感じる人もいるかもしれない。

 

 

初めてミニスカートとハイヒールで出かけた日は、いくつかのアクセサリーをつけただけで革命が起こったみたいだった。そのあと、同じような感覚を味わったのは、監督した映画『ベーゼ・モア』のために初めてカナル・ブリュスの番組に出た時だけだ。

(略)このわざとらしい茶番によって、それが私にもたらした男に対する影響力が、私はすぐに気に入った。立場ががらっと変わったのだ。私はそれまで、ショートヘアに汚れたバスケット・シューズを履いた、ほとんど人目を引かない女だった。それが急に悪の化身になったのだ。最高すぎた。(略)

とにかく、ひとつのことは確かだった。私にもこの仕事はできたのだ。結局のところ、魔性の女になるのに超セクシーである必要も、並外れた性の奥義に精通している必要もなかったのだ。ゲームのルールに従うだけで十分だった。女らしさというゲームの。(略)

はじめ私は、このプロセスに熱中した。女らしいものに無関心だった私が、ピンヒールやセクシーな下着、テラードスーツに夢中になった。今でもよく覚えている。最初の数ヶ月はショーウィンドーに映った自分の姿を見てとまどったものだ。ハイヒールを履いて脚を長く見せた背の高い娼婦は、もはや私とは別人だった。ずんぐりして内気で男のようだった女は、一瞬で消えた。

 

 

カナル・ブリュスはフランスの有料テレビ局。テレビ番組に最初に出た時くらいの興奮を日常的に味わうことを売春は可能にしました。

この体験は「女は女らしくあった方が楽しい」という結論も導き出しかねない。「女であること/男であること」の区別のないキングコングを象徴としているヴィルジニー・デパントはなぜこの時にこれほどまでの快楽を得たのでありましょう。また、なぜそのことをそのまま書いたのでしょう。そのことは彼女の普遍主義とどう整合性をとったのでありましょう。

私はここが気になりました。私なりの解釈はできるのですが、彼女はどう説明しているのだろうと。みなさんも考えてみるとよろしいかと存じます。

※Amazon プライム・ビデオ「キング・コング」(2005)吹き替え版 3時間以上あるのか。無理

 

 

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