松沢呉一のビバノン・ライフ

十二社で見つけた花街の痕跡—改めて新宿の遊廓と花街を訪れた[下]-(松沢呉一)

赤線になろうとした新宿二丁目の青線—改めて新宿の遊廓と花街を訪れた[上]」の続きです。

 

 

大きな花街であったことさえ忘れられつつある十二社

 

vivanon_sentence福田君に渡した資料だけでは図版が足りず、今とのつながりもわかりにくいので、今現在の写真を撮ることになりました。

芸者については戦後の写真がほとんど見つからず、十二社、神楽坂、四谷荒木町に行きました。

たまに十二社を「じゅうにしゃ」と呼ぶ人がいますが、「じゅうにそう」ですので、お間違えのないように。

中野長者こと鈴木九郎が紀州の熊野三山からこの地に十二所権現を移して熊野神社を建立したことから十二社熊野神社が始まり、十二社は地名にもなります。

都庁の西側にある新宿中央公園の西の端っこにあるのが熊野神社。十二社はそのさらに西側一帯の花街だった街です。

鈴木九郎は信心深い人物だったのですが、財産を築いたことで欲が出てきます。財産を神田川を渡った場所に隠し、その場所を知られないように、人足を殺したことから、人足が渡って戻ってこない橋を「姿不見橋」と呼ぶようになり、これがのちの淀橋です(「淀橋と蛇伝説—中野の花街(3)」参照)。これが区名にもなり、カメラ屋の屋号にもなっていきます。

※熊野神社境内に掲示されている写真です。もとは『淀橋誌考』に掲載されている写真だとあります。

 

 

十二社での舟遊び

 

vivanon_sentenceそれは伝説であって、史実ではないのですけど、西新宿から北新宿にかけてはなにかと水に縁があって、現在高層ビルが建ち並ぶ辺りは淀橋浄水場だった場所です。その前は湿地帯であり、十二社には広大な池があり、滝も複数ありました。

この周辺に茶屋や料亭ができて、舟の上で芸者が奏でる三味線を肴に酒を飲む舟遊びが盛んになり、料亭や茶屋の数は100軒に達したそうです。巨大な花街だったのです。

しかし、明治以降徐々に池は埋め立てられていき、昭和43年(1968年)に最後の埋め立てが完了し、それとともに花街は急速に衰退していきます。どうせ花街は凋落していく運命でしたから、「花街のために」というわけではなくとも、観光的に池や滝は残しておいてよかったんじゃないかと思うのですが、そんなにきれいな池ではなかったようです。

今はもうほとんど何も残っていない。十二社には芸者はとっくにいなくなっていることはもちろん、荒木町のようにその名残となる飲み屋街が知られているわけでもなく、10年ほど前に十二社温泉もなくなってしまって、十二社という地名も、辛うじて通りの名前やバスの停留所の名前(十二社池の下)として残っているだけになってます。

熊野神社の境内に、池で舟遊びに興ずる人々の写真が掲示されています(前掲)。池の写真が熊野神社に掲示されていることは記憶していて、それと今も熊野神社に残る小さな池の写真でも出しておけばいいでしょう。

※現在の熊野神社の池。ここまで小さくなったのではなく、もともとあった池とは別に作った池だったはず。

 

 

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