松沢呉一のビバノン・ライフ

愛や結婚に対する疑問に共感があった—田嶋陽子著『愛という名の支配』を褒めたり貶したり貶したり[12]-(松沢呉一)

田嶋陽子の個人主義は不徹底—田嶋陽子著『愛という名の支配』を褒めたり貶したり貶したり[11]」の続きです。

ヴィルジニー・デパント著『キングコング・セオリー』のようなフェミニストの本を読むと、いかに日本の自称フェミニストたちの本質は道徳であるのかがよくわかり、「女らしさ」を守りつつ、女の権利を拡大しようとしているのかもよくわかって鼻白みます。日本では比較的マシなフェミニストだと思う田嶋陽子でもそうです。

このシリーズは、田嶋陽子著『愛という名の支配』を読んですぐに大量に書いたものの中から、まとまらないながら「いつ終わってもいいもの」として公開し始め、その予定通りに適当なところで打ち切って、以降、意味があると思われるパートのみ断片的に出してきたものです。どうしてそうも大量に書いたのかと言えば、単行本の時点では肯定的にとらえていたためです。自身の変化がどこから生じたのかを自分で突き詰めておきたかったのです。そのことを書いたパートを出しておきます。

今回も図版はこれを書いた2019年末に起きていた香港の民主化運動で闘っていた女子たちです。

 

 

なぜ単行本と文庫でこうも印象が変わったのか

 

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このシリーズの冒頭で見たように、単行本と文庫ではまるで印象が違ってました。なぜ単行本で読んだ時には田嶋陽子著『愛という名の支配を高く評価できたのかを考えるに、まずは読む私の姿勢の違いがあります。単行本では私は田嶋陽子の個人史として読んだのに対して、今回は論として読んでしまったのだと思います。論として読むと不徹底で杜撰さが目につく。「私の解決」を述べた「私フェミニズム」でしかないですから、「社会のフェミニズム」で見た時には当然そうになります。

愛という名の支配』はタイトルでもわかるように、「あなたのため」として支配しようとする母親からの脱出物語です。自身より弱い立場の者に自分の信じる規範を押しつけて抑圧し、従属させる構図をわかりやすく見せてくれていて、そこが読みどころです。パターナリズムという言葉は一度も出てこなかったと思いますが、パターナリズムそのものです。

そこにおいて「愛」は支配の道具として利用されます。「あなたのことを愛しているから」というフレーズがパターナリズムにはまとわりつきます。あるいは「あなたのことは私が一番よくわかっているから」「あなたのことが心配だから」といったフレーズです。

何分にも単行本を読んだのはずいぶん前ですから、ぼんやりとした記憶ですが、この時にとくに「愛」に対する疑義を提示している点に私は共感したのだろうと思います。愛の不確実性や欺瞞についての本として読んだと言ってもいいかもしれない。

この本を読む前、雑誌「思想の科学」に愛を行為の判定基準にすることについての疑問をテーマにした長文の原稿を書いていて、愛のいかがわしさは私がずっと気にしてきたことです。

この頃、まだ私ははっきりと売春肯定はしていなかったように思うのですが、その原稿の中でも売春がなぜいけないのかについての疑問は書いていたはずです。愛のためなら許されて、金のためだと許されないことの理不尽さがずっと私の中にはありました。

愛という感情が存在することは否定できませんが、第三者がその存在を確認することは限りなく難しい。よって、本人が愛だと言えば第三者はそれを否定はしにくい。金をもらっていても愛と言い得るのに、なぜ金がからむと愛ではなくなるのか。なぜそんないい加減なものが力を持ってしまっているのか。

愛は時にパターナリズムを正当化する名目になることを愛という名の支配では実体験をもとに明らかにしています。そこが私の問題意識に重なったため、当時の私にとってはいい方向に作用したのだろうと思います。同じようなことを考えているぞと。

※11月15日付「立場新聞」掲載「中大示威者記者會」 香港時間の深夜3時にバリケードの中で行なわれた中文大学の記者会見。最初から最後まで一言も発しませんでしたが、左はおそらく女子。中文大の闘争でも女子率が高い印象です。香港の大学はどこもそうか。女の主体性を認めようとしない人たちは、彼女も強制されてここにいるように見えるのでしょう。

 

 

愛の欺瞞・結婚制度の欺瞞

 

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といった事情から、単行本を読んだ時には、結婚制度への疑義、結婚している女たちへの強い批判の部分も「なかなかやるな」と感じました。

フェミニズムの初期から結婚制度への批判はありましたが、とくに日本では「封建的な結婚から霊肉一致の恋愛結婚に移行し、そして、男女格差を温存する結婚制度そのものへの批判へ」というのが大きな流れかと思います。

明治以降、西洋から移入された「恋愛」は旧来の家族制度に則った結婚から脱出する道具として使われます。家と家の婚姻から個と個の婚姻へ。その方向を保証する根拠として、霊肉一致思想が力をもっていくわけですが、結婚制度とそこに向かう男女の関係を肯定する条件として愛が使われることによって、今度は「愛なき肉体」「自立した肉体」を否定する作用をしていくことになり、これは性の禁忌にもなっていきます。愛がなければただの肉欲。愛で初めてセックスは浄化されるのであり、そのためには男女の対が単位になり、排他性を必要とします。

こうして愛が新たな道徳規範になっていきまます。

花園歌子は今から一世紀以上前に、「霊肉一致」は新たな道徳になって、恋愛さえも不自由にしていくことを予見していました。規範からはみ出していた花園歌子だからこその慧眼です。人の行動を規定する新たな規範になったのです。「愛は道徳と化す」

これに対して田嶋陽子は「愛はパターナリズムを肯定する根拠と化す」と指摘。この指摘までは同意できます。

 

 

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