松沢呉一のビバノン・ライフ

「新しい女」たちは偉い。支持した人たちも偉い。妨害した成瀬仁蔵や津田梅子は偉くない—井手文子著『自由 それは私自身』を40年ぶりに再読した[4](最終回)-(松沢呉一)

成女女学校の宮田修と常磐松女学校の三角錫子—井手文子著『自由 それは私自身』を40年ぶりに再読した[3]」の続きです。

 

 

 

日本女子大の成瀬仁蔵は「青鞜」を心底嫌った

 

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話を雑誌「太陽」の特集「現代女子教育の根本方針」に戻します。日本女子大の成瀬仁蔵校長は「青鞜」の活動を妨害した人物ですが、この特集で成瀬仁蔵は、「女はどこまでも女である。男のなすべき任務とそこにおのずから区別せられたる任務を有する。かの新しき女の主張が往々にして男女の差別を無視せんとするが如きは思わざるのははなはだしきものと言わねばならぬ」と書き(言葉がおかしい気がしますが、原文ままです)、この人は平塚らいてうを筆頭に日本女子大出身者が複数関わった「青鞜」を心底恥じていたようです。

こういった妨害は大きなダメージになっていました。明治44年(1911)9月に創刊された「青鞜」の時点で発行人、賛助員、社員が30人程度いたのが、半年で計42名に増え、大正2年(1913)、11月号の時点では計19名に減少。

理由はさまざまあるでしょうが、もっばらメディアの攻撃や教育者たちの攻撃にあったと著者は見ています。とくに学校でしょう。津田塾にせよ、日本女子大にせよ、さらにはほとんどすべての女学校では青踏社に関わることは禁止され、関わったことがバレると退校処分です。卒業していても、同窓会から除名されかねない。

こういった具体的処分が待っているとなれば屈服するのが出てくるのは当然です。

「青鞜」創刊の翌年、大正元年(1912)11月、伊藤野枝は青踏社に入社。大正4年(1915)11月、伊藤野枝は平塚らいてうから「青鞜」の編集を引き継ぎます。伊藤野枝は20歳でした。

この引き継ぎは、平塚らいてうもバッシングに耐えかねて、私生活に没頭したいということで廃刊を考えていたところ、伊藤野枝の熱烈な申し入れで発行を譲っているのですが、大正5年(1916)2月号で力尽きました。熱意はあっても、結局のところ、金が続かなかったのです。

そもそも「青鞜」の創刊は、平塚らいてうが親族に頼って資金を得て始めたものです。その資金の上に十分な売上があればよかったのでしょうが、与謝野晶子長谷川時雨のようなビッグネームが参加し、話題にもなったわりには部数は伸びず。

出版社に流通を委託していたようですが、創刊号は千部、最大で3千部だったと言われます。今より雑誌の値段が高い時代だったとは言え、千部だと平塚らいてうの生活費と事務所維持費で終りだったでしょう。3千部出れば余裕がありますが、発禁も食らってますし、部数はジリ貧になっていったので、つねにカツカツだったかと思われます。

平塚らいてうの時代は女子大卒のお嬢様たちが多い分、青踏社はサロン的な役割も果たしていたのですが、伊藤野枝に引き継がれてからは自宅の一室である四畳半が伊藤野枝の仕事場であり、「青鞜」の編集部でした。平塚らいてう周りのお嬢様たちは寄り付かなくなり、そういう意味でも伊藤野枝は孤立感を高めていたようです。

Wikipediaより長谷川時雨

 

 

なぜフェミニズムの雑誌は長続きしないのか

 

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大杉栄と伊藤野枝がいなくなってから5年後の昭和3年(1928)、「青鞜」にも関与していた長谷川時雨が「女人芸術」を創刊。資金は内縁の夫であった三上於菟吉が負担。

『放浪記』を連載し、林芙美子はこの雑誌が世に送り出したと言ってよく、文学面での貢献が大きいいのですが、政治色、運動色を強めて、創刊から1年ほどでマルキストが台頭し、アナキストたちは離れます。この時代に左傾化すれば発禁は必然であり、毎号赤字は三上於菟吉が補填してましたが、4年で廃刊となります。

それと同時にフェミニズムの雑誌は売れない。その理由は「女には買う余裕がないから」と言う人たちもいそうですが、『この百年の女たち』では、実用系の雑誌がいかに売れていたのかをしっかり記述しています。この場合の実用とは料理であり、裁縫であり、育児であり。

この百年の女たち』で著者は、戦後の雑誌もいくつか名前を出して、どれも短期で終わっていることを記述した上で、こうまとめています(とくにここでは1970年代のフェミニズム系雑誌を前提にしている)。

 

個々の雑誌の特殊な事情を別にすれば、その理由としてまず第一には、もともと女が十分な経済力をもつことができぬために、経営的ゆきづまりを生じたことがあげられる。(略)どんな情熱も、それだけでは刃折れ矢つきた経営状態を克服することがきわめて難しい。第二には、雑誌経営のおおきなささえ手は読者だが、その読者になるべきはずの女たちのあいだに、支持がひろがらなかったことである。婦人問題誌一般によく見かける自意識過剰というか、気負いすぎの文章が、かえって親しみのひろがりを疎外した点も見おとせぬだろう。さらに第三には、おなじ時期に商業ベースであいついでうまれた横文字やカタカナ誌名の、若い女向け生活情報誌のあでやかな誌面と宣伝に圧倒されたこともかんがえられる。とすれば、ごく一般的にいって女たちの意識は『青鞜』の時代と今日とどれほどかわったといえるのだろうか。

 

 

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