フォークからニューミュージックへと唇は赤く染まった—唇が物語る[4]-(松沢呉一)
「銀座のママ風メイクからナチュラル・メイクへ—唇が物語る[3]」の続きです。
フォークとスッピン
ここまでを見ると、唇は濃い赤から薄い赤、あるいは赤くしない方向に動いていたようです。全体としてそう見てもいいかもしれないですが、細かく見ると、逆転していたり、維持されていたりする部分もあります。今回そこを確認しておきます。
歌謡曲ジャンルでは銀座のママ風が主流だった1970年代に、もっとも化粧っけがなかったのはフォークの人たちか。
りりィの曲でもっとも好きなのは「心が痛い」ですが、本人が出ている動画が見当たらず。
このライブはうんとあとのもので、1970年代の全盛期は完全にスッピンが多かったはず。ハーフで、くっきりした顔立ちだったので、それでも映えました。彼女のアルバム・タイトルが「ダルシマ」だったせいで、ヨーロッパ系ハーフと思ってましたが、Wikipediaを見たら、父親は米空軍将校だったとのこと。
亡くなった時に記事を見ましたが、2016年に肺癌で死去。いつも酒とタバコを手にしていた人でした。
森田童子のドキュメンタリーに目が釘付け
森田童子も化粧とは無縁だろうと思いつつ、「森田童子の動画ってあるのかな」と検索したら、いくつかありました。
自主映画テイストですが、東京12チャンネル(現テレビ東京)で放送されたドキュメンタリーらしい。
唇を見たかっただけなのに、強く心を動かされました。
森田童子のドキュメンタリーというより、森田童子のコンサートを主宰する人のドキュメンタリーですが、動く森田童子を観るのは初めてです。歌声も細く、極端に寡黙な人だと思っていたので、こんなふうに自分の考えを堂々と語る姿は意外でした。
はっきりとはわからないのですが、薄く化粧をしているように見えなくもない。このドキュメンタリーを観ると、そうであってもおかしくないと思えます。本名を明かさず、私生活も見せず、サングラスをしていて、ウィグ説もある髪の毛で正体を見せない彼女にとって化粧も自身をガードする方法だったのではないかと考えられるのです。
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