松沢呉一のビバノン・ライフ

柳原白蓮と原阿佐緒の生き方—岡満男著『この百年の女たち—ジャーナリズム女性史』[中]-(松沢呉一)

海水浴場まで混浴禁止になった例がある明治時代—岡満男著『この百年の女たち—ジャーナリズム女性史』[上]」の続きです。

 

 

柳原白蓮の評価はペンディング

 

vivanon_sentence岡満男著『この百年の女たち—ジャーナリズム女性史』第二部の第4章「社会規範の重圧 恋愛悲劇素描」は、心中を筆頭に、悲恋と言っていい男女関係を取り上げています。

冒頭は柳原白蓮こと柳原燁子です。白蓮は歌人であり、「美人」「悪女」「奔放」といったさまざまな切口で取り上げられてきた人で、スキャンダラスではあっても、この章の「悲恋」「悲劇」とはきれいに合致しない印象の人です。

白蓮は長生きしていて、エピソードも多いのですが、もっとも知られるのは大正10年(1921)に、男と駆け落ちし、当時の夫(燁子は二番目の妻)である炭鉱成金の伊藤伝右衛門に向けて、新聞紙上で絶縁状を公開した「白蓮事件」と言われる騒動です。夫もこれに応じて公開で反論をして泥沼化。

本書でもこの事件を取り上げて燁子に肩入れしているのですが、どうも白蓮は計算高さが鼻につくところがあって、当時も燁子の言い分そのままに「かわいそう」と見る人たちばかりではありませんでした。だからこそ、世論が割れて大騒ぎになったわけです。

つってもはっきりとどこがどう計算高いのか私も自信をもって指摘はできないので、改めてこの人については調べてみて、どちらに向くにせよ、評価を安定させたいと思わないではない。

このあと、平塚らいてうの心中未遂事件や松井須磨子の後追い自殺、有島武郎と波田野秋子の心中事件が続き、原阿佐緒が登場します。名前は記憶にありますが、どんな人かよくわかっておらず、ざっと読んで俄然興味を抱きました。

Wikipediaより柳原白蓮

 

 

原阿佐緒の奔放な一生

 

vivanon_sentence原阿佐緒は宮城県生まれ。東北帝国大学の物理学教授であり、歌人でもあった石原純と短歌つながりで知り合って恋に落ちて同棲、妻子のいた石原純にとっては許されぬ恋であり、これが醜聞となって辞表を提出。このエピソードをどこかで読んでいたのだと思います。

このことを報じた大正10年(1921)7月30日付「東京朝日新聞」に原阿佐緒のプロフィールが紹介されていて、本書に転載されているので、ここにそのまま出してみます。

 

石原博士との恋をうたわれている歌人原阿佐緒女史は、今年三十五の姥桜ながら、彼女が郷里から六里の道を得意の乗馬で仙台に姿を見せると、われこそ馬のくつわを握らんものと若い男がわいわい騒ぎ立てるを常としている。

土地での豪農の一人娘に生まれ、甘い母親の手塩にかかった彼女は、その天才はだの性格が手伝ってまだ小学校に通っている頃からすでに男教員との浮名をたてたものだ。仙台の高等学校を半途で上京して景文女学校に入学したのは、今から十四五年前のことで、間もなく当時京華中学校の教師をしていた文学士と恋仲となり、三年余り同棲して二人の間に子供まで生まれたが、……この同棲中に彼女は一度自殺を企てたことがあってその時の短刀の跡が彼女の咽喉に今なお深い秘密を物語顔に残っているという(ここ、文章がちょっと変ですが、原文ママです)。その後彼女は男と別れてから、しばらく仙台で女学校の先生などをして遊んでいたが、そのうちに美術学校を出た洋画家と第二の恋におち、再び東京に出て新宿付近で二年ばかり共同生活を続けていたが、男が原家の財産に目をつけている事が露骨にわかって来たので別れてしまった。この時もまた彼女は子供を生んだ。彼女の放縦生活は、その前後からいよいよ加わって来て十万円ぐらいあった自分の家の財産をほとんど消費してしまい、生活に困って神田あたりの書籍店の女事務員をした事もあった。

彼女の例の厚化粧をした乗馬姿が仙台の町にほとんど毎日の如く現れるようになったのは、大正七年頃で、石原博士とともにアララギ派の歌の会を起こしたが、博士との往復はこの時にきざしたので交情は年とともに濃さを加えた。

 

……の部分は省略した部分だと思われます。

 

 

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