松沢呉一のビバノン・ライフ

SM描写まで出てくる稀有な小説—岩野喜久代著『投込寺異聞』[下]-(松沢呉一)

すぐそこに肺病(結核)があった—岩野喜久代著『投込寺異聞』[中]」の続きです。

よく言われるような意味での「投込寺」は都市伝説であるという話は「投込寺の正しい由来-「吉原炎上」間違い探し 22」を参照のこと。

写真は今まで使ったものを使い回しています。

 

 

 

つゆ子女王様の行状

 

vivanon_sentence岩野喜久代の小説「投込寺異聞」の満州以降のパートは、第1章と第2章の落ち着いたトーンと違って、チープな冒険小説のようです。岩野喜久代は戦前からたびたび満州に行っていたようで、この辺の描写はその際の見聞によるものかもしれず、リアルと感じられる点もありつつ、前回見たような小説としての無理もあります。しかし、チープな展開は私にとっては好印象でした。

大学生の「私」は浄閑寺住職の視察のお供をして満州に行き、そこの書堂でつゆ子を見かけます。書堂はもともと書店の意味らしいのですが、書を読む場所に偽装した売春宿です。「私」はそこで遊ぶつもりで行ったのではなく、連れていかれただけです。

満州の書堂で、つゆ子は自前の売春婦をしていました。借金のない売春婦です。

つゆ子は中国人の玲玲だと言い張り、浄閑寺で「私」と会ったことを否定しますが、その後またも偶然出会って、つゆ子であることを認め、ここからは前回見たようなつゆ子の過去の説明が続きます。説明というより、これがこの小説のもっとも面白い本題と云うべきか。

学生時代の彼女は海で遭難して、どこかの国の船に助けられ、その代わり、処女を奪われ、絶えず身につけていた、祖母にもらったヒスイなどの宝石も奪われ、その復讐として男をたぶらかし始めます。

寄宿舎に入れられたつゆ子は、目をつけた少年工を犬のポチとして手なづけ、足をなめさせたり、首に縄をつけて引きずり回したりしています。SM小説でもあるのです。セックスの描写は出てこないのに、ここの描写だけは具体的で、著者は興味があったのかも。

結局、これが学校にばれて彼女は放校され、会えなくなることを嘆いて、少年は彼女が乗る列車に飛び込んで自殺をします。

この事件があってつゆ子は実家に戻され、17歳で神戸の実業家と結婚させられますが、20歳年上の夫には愛情を抱けず、若い運転手にちょっかいを出して心中事件を起こします。しかし、男だけが死にます。彼女には無意識のうちに男を蹴って沈めて自分だけ生き残った記憶が残っていました。

この心中が広く知られることになって、実家にも戻れずに東京に出てくることになります。

※吉原にある銭湯

 

 

SM小説であり、ヤリマン小説でもある

 

vivanon_sentenceこういったエピソードがものすごい勢いで次々と記述されていくのですが、この一連の流れでの彼女はカッコいい。童貞とセックスをして相手を狂わせることが楽しい。彼女にとって日本の歴史に登場する女は「影の薄いヘナヘナ女」ばかりで、憧れているのは中国の武后や西太后のように、絶対的な権力を持った女でした。

多数の男たちを手玉にとってきた彼女が男関係で一回だけ失敗したのは、嫉妬深いヤクザの男とつきあったことでした。彼女は監禁同然に拘束されます。「私は誰のものでもない、私自身のもの」と考える彼女はそれを嫌って逃げ出して、自ら吉原で働き出したのです。その男が「自分の子どもではない」として骨壷をもってきます。実はこれはこの男との子どもだったのですが、子どもがいることで縛られることを嫌った彼女が殺したのでした。

殺人とはタダ事ではないですが、これも猛スピードで流れていくエピソードのひとつなので、このことの記述はそんなに大事でもない。

童貞好きの彼女は、満州で同行する間に、童貞である「私」を狙っていました。

つゆ子に興味津々だったはずの「私」はつゆ子に警戒し始めて、一回もセックスをすることもなく、幕は閉じられます。ここはヤっちゃった方がより名残り惜しくて別れに情感がこもったと思います。

事態は急速に転換します。彼女は盗まれた宝石を見つけ出して買い戻すことに成功。その宝石を失ったために会うことがためらわれた祖母と再会するために祖母を尋ねたら、その直前に亡くなっていました。祖母は売春業で儲けた金で孤児院を始めていたことも知り、つゆ子もあっけなく改心してロシア正教に帰依し、すべて懺悔をして祖母が始めた孤児院を継ぐ決意をします。

このラストも、やりまくって最後は落ち着くポルノ小説を彷彿とさせました。

なお、この小説ではセックスはセックスと書かれています。戦前の設定においてはちょっと不自然かと思いました。戦前もセックスという言葉は使用されている例はありますが、とより広く性全般を示す言葉であり、個別の行為をセックスとしている例は少ないはず。それでも地の文章での使用、つまり戦後の岩野喜久代の言葉遣いですからまだいいとして、「私」の感慨として、「タイムトンネルを百年、二百年あとずさりをしたように」という比喩が出てきます。これは著者の言葉ではなく、「私」の内的感慨です。タイムトンネルはテレビドラマによって広がった言葉ですから、不自然さは拭えない。

なにもかもが荒唐無稽という形容がぴったりですが、娯楽性が高い。浄閑寺のことはどうでもよし。

チープな冒険小説であり、SM小説であり、ヤリマン小説でもあるわけですが、もっと描写を細かくして、一冊まるごと娯楽小説にした方がよかったのにと思いました。超然と男を漁っていく女を主人公とした小説は日本では少ないので、傑作になったかもしれない。それを僧侶の妻が書いたのはいよいよそそられます。

※『永井荷風と浄閑寺・與謝野晶子と荻窪のサロン―岩野喜久代随想集』 これ以上、「投込寺」伝説についての情報はこの人は書き残していないでしょうが、与謝野晶子については読んでみてもいいかな。

 

 

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