焼け跡の経歴詐称と松谷天光光の餓死防衛同盟-「戦後実現した婦人参政権への期待を潰したのは婦人議員たちの経歴詐称だった」の補足-(松沢呉一)
「戦後実現した婦人参政権への期待を潰したのは婦人議員たちの経歴詐称だった—岡満男著『この百年の女たち—ジャーナリズム女性史』[下]」の続きです。
焼け跡の経歴詐称
「戦後実現した婦人参政権への期待を潰したのは婦人議員たちの経歴詐称だった—岡満男著『この百年の女たち—ジャーナリズム女性史』[下]」に書いた「婦人参政権が実現した初の選挙である第22回衆議院議員総選挙で当選した婦人議員の中から次々と経歴詐称が見つかって、婦人議員への期待が裏切られた」って話はなんともイヤーな気持ちになります。
「そんなことをしなくても、ご祝儀票が入ったのだから、当選した可能性が高かったはず」と書きましたが、当選するためにそうしたのではなく、普段から嘘をついていたために、選挙の際にも嘘をつき続けるしかなかったのではなかろうか。女学校を中退したのに卒業と詐称するのはいかにもありそうです。
経歴詐称のうちの何割かはこのパターンだと思います。嘘は小さなところから始まります。
あの記事では一人だけ経歴詐称して当選した婦人議員として今井はつの名を出しましたが、あのあと「一人だと弱いな」と思って、さらに探したら、すぐに出てきました。
以下はWikipediaより木村チヨ。
1946年の第22回衆議院議員総選挙では京都府から無所属で立候補し当選した。当選後、「福岡県立女学校卒業」という経歴が詐称であることが発覚した。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において民主党公認で立候補したが落選した。
以下はWikipediaより三木キヨ子。
1946年の第22回衆議院議員総選挙(大阪府第1区)に大阪民本党から立候補して当選、26歳の最年少議員となった。当選直後「大阪府立女専中退」という経歴が詐称であることが発覚し、三木はその事実を認め、裁判では禁錮2ヶ月の判決を受け控訴したが、5ヶ月後に免訴となった。
翌1947年の第23回衆議院議員総選挙に日本自由党公認で、1949年の第24回衆議院議員総選挙に民主自由党公認で大阪2区から立候補したがいずれも落選した。
これで全部かどうかわからないですが、少なくとも3名が経歴詐称していました。3名とも経歴詐称により政治家生命は終わっていて、以降は落選。当然です。
本人がそうなるのは当然として、39名の女性当選者のうち、3名の経歴詐称によって全員が責任をとらなければならないわけはないですが、ざっと見たところ、夫や親族が公職追放となったために立候補できず、その代わりに立候補したケースも複数いて、婦人参政権に積極的思いがあったわけではない当選者も多かったようです。
女というだけで投票するとロクなことはないと有権者が学ぶきっかけにはなったでしょう。その結果、翌年の第23回衆議院議員総選挙で当選した女性候補は15名に激減。これが正当な数字です。男という属性だけで投票してはいけないのと同じく、女という属性だけで投票してはいけない。
※Wikipediaより初の女性代議士たち。経歴詐称議員たちの写真が見つからないのですが、今井はつは、最前列左から二番目です。
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