松沢呉一のビバノン・ライフ

山中潤と待ち合わせ—30年前に「ガロ」に起きたこと-(松沢呉一)

 

「待ち合わせ」に出ました

 

vivanon_sentence風邪をひいてしまいました。オミクロンがすさまじい勢いで広がっていて、当然、感染が疑われるところですが、検査キットでは陰性でした。原因からしても(これについてはまたそのうち)、症状から見てもただの風邪でしょう。

副鼻腔炎の時の検査に続いて、2度目の陰性です。そろそろ感染しないと世間体が悪いですが、私が無防備なのは感染しにくい屋外であって、うっかり忘れていない限り、屋内ではわりとマスクをしてますし、距離もあけてます。

普通の風邪だって十分に辛く、金曜日は一日寝てまして、土曜日も寒気と鼻水と咳が続いていて、万全な状態ではありませんでしたが、山中潤と2時間半も「ガロ」について話し続けてしまいました。

 

 

 

 

※3分30秒くらいまで、中継が始まっていることに気づかずに私と中山潤は客とだべっていますので、そこは飛ばしてください。このお客さんは宮城県塩竈市で高校時代に長井勝一の講演会に行ったのがきっかけでサブカルの世界に入っていった人物です。その話も十分面白かったですが。

 

 

思い出が嫌いな私が思い出を語った事情

 

vivanon_sentenceずーっと言っているように私は思い出を語ることが嫌いです。それでも、ここ数年、ふとした拍子に古い記憶を辿っていることがあります。いい思い出ではなく、ほとんどの場合は辛い思い出です。

謝らなければならないことがあったのに、その機会が来ないまま自殺してしまった人のこと。私自身のプライドのために罵倒してしまった人のこと。もっといい別れ方ができたはずなのに、ただただ冷たくしてしまった人のこと。そんな人たちのことを思い出しては「あの時こうしていれば」とひどく悔いる。悔いるだけの思い出の数々。

人間が弱くなっている表れであると同時に、未来がもう見えないので、振り返るしかなくなっているのだろうと思います。

こんな思い出は背筋が寒くなるようなものでしかないのですが、一昨日は思い出を語ることにそういった不快感はほとんどありませんでした。「私には」です。

中山潤は数年前まで語れなかったことがやっと語れるようになってきて、いまなお苦しい思い出ではあるのですが、そのリハビリに協力したような2時間半でした。

あの当時のことをよくわかっていない人たちにとっては細かな説明をすべきだったのですけど、なにしろ話をなぞるだけでも長くなってしまうため、説明をすっ飛ばした箇所が多々あって、わかりにくかったかもしれません。まるでわかっていない人は最初から観てないでしょうけど、少しはわかっている人たちに対しても不親切だったかとも思ってまして、シリーズ化するとしたら、もうちょっと親切にやっていきたいと思います。

※会場の三角地帯は初めて行ったのですが、予想できる通りに三角の建物の三角の店です。その外観

 

 

肩の荷がひとつ下りました

 

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あの中で語った通り、山中潤に対しては若干の責任を感じています。

青林堂の経営に乗り出す前、彼は20代にしてPCソフトの会社ツァイトを経営していて、50人もの社員を抱え、個人としても億単位の貯金を持ってました。数年間でそのすべてが消えました。本人が説明していたように、どのみちツァイトは消える運命だったわけですが、そうは言っても、個人の貯蓄までを失い、頭もおかしくなって、死ぬことを考え続けるに至った契機を作りだしたのは私です。

私はきっかけを作ったあともしばらくは意見を彼に伝えることはあったし、向こうから意見を求めてくることがありましたが、それも最初の1年くらいで、私は彼の行動を諌める方向で意見することが多かったので、あるところからは疎んじられていたのだろうと思われて、直接会話をすることよりも、編集部の白取千夏雄経由で間接的に山中氏の状況を聞くことばかりになっていきます。

その前から彼は青林堂との接点はあったので、私ではない誰かが間をとりもったかもしれず、そうであった方がすべてにおいて私は高みの見物ができて楽だったろうと思います。

しかし、現に関与してしまったので、一昨日はその責任を果たしたようなところもありました。

 

 

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