松沢呉一のビバノン・ライフ

ナチ・ハンターズのミス—ステパーン・バンデーラからアゾフ連隊へ[付録編4]-(松沢呉一)

OUNには反ユダヤ・親ナチス/反ナチス・反ソが共存していた—ステパーン・バンデーラからアゾフ連隊へ [付録編3] 」の続きです。

 

 

ユダヤ人たちが戦争犯罪人として裁かれた

 

vivanon_sentence以上が、全14章からなるチャールズ・アッシュマン/ロバード・J・ワグマン著『ナチ・ハンターズ』の第6章〈「子ども殺し」を裁く〉の概略です。これはOUNがらみ、ウクライナがらみだから今回取り上げましたが、他の章も面白く、今まで知らなかったことを多数知ることができました、

改めて他のエピソードも「ナチス・シリーズ」として取り上げけるかもしれないですが、面倒になって、これっきりこの本については取り上げないかもしれないので、もう少し触れておきます。

この次の第7章は〈アメリカのナチ・ハント〉で、第6章からの流れで、米国が舞台です。この章では一人の戦争犯罪者をクローズアップするのではなくて、複数の例を出して、米国における戦争犯罪の追及がどういう制度、どういう組織のもとで進められていったのかを記述しています。

その冒頭部分で、こんな文章が出てきます。

 

一九五〇年代に移民帰化局が告発に踏み切った戦争犯罪がらみの事例はわずか五例にすぎない。驚いたことに、最初の三件の対象者は全員、ナチに協力した囚人とされるユダヤ人だった。

ヤコブ・テンサーは、ポーランドのビアンキにあったにドイツの兵器工場の強制労働部隊の監督として仲間の囚人に危害を加えたことで告発された。コナス・レビはポーランドのウッジのゲットーでカポとして働き、仲間のユダヤ人に危害を加えたことで告発された。ハインリヒ・フリードマンも、ポーランドのミエレチにあったドイツ空軍の工場の強制労働部隊の監督として仲間のユダヤ人に危害を加えたことを理由に告発されている。告発のきっかけが似ていたことをの別にすれば、三例には共通点は存在しなかった。いずれも、かつての囚人が被告と道で偶然出会って相手の正体ょ見破り、移民帰化局に通報した事例だった。

しかしその後、これら三件の目撃者の証言内容がかなり似通っていたことが判明した。いずれの事例についても、被告が仲間に危害を加えていたという証言が若干あったとはいえ、逆の内容の証言も数多く出てきたのである。三人の被告はさまざまな場面でユダヤ人を守り、彼らを救うために英雄的な働きをし、強制労働の現場を改善しようと必死に努力していたというのだ。

 

ひとたび疑われると、疑惑を晴らすには手間がかかり、とくにコナス・レビについては、移民帰化局が告発を取り下げるまでに少なくとも7年かかっています。

これは日常生活における人間の評価を考えても理解できます。10人9人までが高評価する人物でも1人は些細なことで恨んでいたり、嫌っていたりすることはよくあります。人間は完璧ではないので、たまたま虫の居所が悪い時に、ある人物に辛く当たったりすることはあるでしょうし、本人になんら悪いところがないのに嫉妬されたり、問題のある人物を叱責したことを逆恨みされることもあるでしょう。

たまたまその一人の証言が採用されたために、他の人たちもその流れに巻き込まれて、「あいつは悪人だ」との思い込みにとらわれる人たちが出てきて、それを覆すには3人の証言が必要とされたりします。

ある人物がナチスにどう関与したのかを反対するには丁寧な審議が必要とされるのです。

※「ウクライナ辞典」よりステパーン・バンデーラと家族

 

 

ジーモン・ヴィーゼンタールの早とちり

 

vivanon_sentenceナチ・ハンターと言えば、ジーモン・ヴィーゼンタールがもっともよく知られ、本書にもたびたび名前が出てきます。とくに第13章〈民間のナチ・ハンター〉で詳しく取り上げられていて、彼はウクライナ出身のユダヤ人であり、偶然と意思の力で戦後まで奇跡的に生き残り、戦後はナチの追及に半生を捧げています。

この13章では偉大なナチ・ハンターとして讃えられていて、他のユダヤ人組織に比べると慎重だったと言える点も挙げられているのですが、熱意はありながらも、判断力については若干問題があったように読めます(多数の案件を抱えていたので、そういうのも中にはあったということに過ぎないかとも思いますが)。

そのもっとも顕著な例はフランク・ワルスの裁判です。1976年、シカゴに住んでいたポーランド系移民が、ゲシュタポに所属して、ポーランドでユダヤ人迫害に関与したとの情報をヴィーゼンタールが公表。それに基づいて移民帰化局によって捜査が開始され、イスラエル政府の協力のもと、フランクという名のゲシュタポ将校が残虐行為をする現場を見たとする11名の証人を探し出し、そのうち7名までがワルスの写真を見て、間違いないと証言。

しかし、熱心なワルスの弁護士は、自腹で西ドイツにまで行って調査し、ゲシュタポの職員名簿にワルスの名前はないこと、戦中、ポーランドにはおらず、ドイツ南部のいくつかの農園で働いていたことを証言する人々を探し出します。

そもそも彼はドイツに住んでいたことがあっても、ポーランド生まれのポーランド人ですから、ゲシュタポに採用されることはあり得ない。また、身長も基準より低い。

これらの決定的な事実をもって裁判に臨んだのですが、裁判長ははなっからワルスを戦争犯罪人と決めつけ、ワルスには「イエス」「ノー」以外の発言をさせず、弁護士の発言時間も短くされて、ワルスは市民権剥奪の判決が出てしまいます。

しかし、その判決が出てからも、彼と農園でともに働いていたユダヤ人が、この裁判のことを知って名乗りを上げるなど、新証拠、新証言が次々と出てきて、1980年、控訴審で差し戻しが決定。

 

 

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