松沢呉一のビバノン・ライフ

オーバーキャスト作戦とペーパークリップ作戦—ステパーン・バンデーラからアゾフ連隊へ[付録編5]-(松沢呉一)

ナチ・ハンターズのミス—ステパーン・バンデーラからアゾフ連隊へ[付録編4]」の続きです。

 

 

市民権を剥奪されたウクライナ人

 

vivanon_sentenceチャールズ・アッシュマン/ロバード・J・ワグマン著『ナチ・ハンターズ』には、コズィ以外でも、米国に移住したウクライナ人の例が第7章に出ています。

トレブリンカ強制収容所の看守(ロシア人やウクライナ人では看守になれなかったでしょうから、おそらくカポ)だったフェオドール・フェドレンコは、その事実を隠して1949年に米国に移住し、1970年に帰化。帰化の際にも「看守」だったことを伏せていて、ユダヤ人の迫害に関与していたと告発されます。

フェドレンコに関する目撃証言はなく、トレブリンカ強制収容所では7割の収容者が殺されていて、生き残った彼が関与していないとは思われないというのが理由です。そんな収容所で「看守」をやっていた以上、残虐行為、殺害行為に関与していたに違いないと。無理のある告発でした。

彼は看守だったことは認めますが、強制されたのだと主張します。看守を強制されることはないでしょうから、やはりカポでしょう。もともと彼はソ連に徴兵されて、戦地で捕虜になって捕虜収容所に入れられ、「看守」を命じられて拒否することができなかったし、トレブリンカ強制収容所にいた時期は1942年から翌年にかけての短い間だけだったと弁明します。

しかし、トレブリンカ強制収容所にいた時期はもっと長く、かつその間に繰り返し表彰されていたことが判明します。そのことが理由となって、結局、彼は1981年に市民権を剥奪されています。

実際のところ、どうだったのかわからず、わからないがために、目撃証言もないまま裁くのはまずい。「看守」をやっていた期間を短く証言しただけでは弱くて、表彰されたことがすなわち収容者を迫害した証拠にはならない。

しかし、この場合は、虚偽の申請を出したことだけでも市民権は剥奪されるため、まだしも結論は出しやすい。

最終的には市民権を剥奪された、つまりは「有罪」だったわけですが、それでも最高裁判所まで数年間にわたって審議されているのですから、そこにいくらかの救いがあるとも言えます。

短時間で判決が出された戦後間もない時期の裁判では不当判決が連発していたであろうことは想像に難くありません。だから、ナチスに対する抵抗をした人たちが強制収容所に入れられ。カポになったがためにあまりに多く被告となり、有罪にされてしまいました。もっと時間をかければ無罪になった人もいたはずです。ことによると、大半が無罪になったのではないか。

戦後間もなくの裁判は早く結論を出して、何人か死刑にしないと大衆が納得しないというニーズに押されたのでした。疑われたらおしまい。いかに不服を申し立てても再審が認められる可能性はゼロに等しく、泣き寝入りした人たちが多かったのだろうと改めて思いました。

Charles R. Ashman/Robert J. Wagman Nazi Hunters: Behind the Worldwide Search for Nazi War Criminals』 英語版原著

 

 

フォン・ブラウン博士を歓迎した米国の思惑

 

vivanon_sentence1970年代後半に、それ専門の機関である特別調査局ができるまで、米国におけるナチス戦犯の追及は、移民帰化局が片手間に、かつ移民や帰化の認可が適切か否かを判断するのみだったことを見てきましたが、この次の第8章〈ペーパークリップ疑惑〉では、なぜ米国政府が積極的ではなかったのかの背景を明らかにしていきます。

米国の宇宙ロケット開発に大いに貢献したヴェルナー・フォン・ブラウンを筆頭に、ナチスに協力しながら、戦後、米国に移り住んだ科学者たちがいます。

フォン・ブラウンの場合は、戦争末期に、米国に亡命しようとした事実があり、そのことがナチスへの協力を相殺しているので、免罪されたことは理解はできるのですが、この第8章を読むと、この話は大いに怪しくなってきます。本書において、フォン・ブラウンについて怪しいと指摘しているわけではないのですが、フォン・ブラウンが米国に移住したことの背景を知ると、亡命しようとした事実がなかったとしても、米国は受け入れたと確信できます。

 

 

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