松沢呉一のビバノン・ライフ

親衛隊第一四義勇装甲擲兵師団(ガリツィア師団)の評価—ステパーン・バンデーラからアゾフ連隊へ[付録編6]-(松沢呉一)

オーバーキャスト作戦とペーパークリップ作戦—ステパーン・バンデーラからアゾフ連隊へ[付録編5]」の続きです。

 

 

カナダに移住したガリツィア師団の生き残り

 

vivanon_sentenceチャールズ・アッシュマン/ロバード・J・ワグマン著『ナチ・ハンターズ』の第10章<カナダとオーストラリアの問題>でも、ウクライナが重要なテーマになっています。

すでに見たように、カナダは多数のナチ党員を受け入れているのですが、とくに1943年にウクライナの志願兵によって編成された親衛隊第一四義勇装甲擲(てき)兵師団の扱いが議論となります。この師団はハリチヤナ武装親衛隊師団、あるいはガリツィア師団とも呼ばれています。以下、ガリツィア師団とします。

ガリツィアは現ポーランドと現ウクライナにまたがる地域で、多数のウクライナ人と少数のポーランド人からなり、1939年にソビエトに支配され、1941年からナチスドイツの支配下となります。

ナチスにとってスラブ人は人間以下(untermenschen)ですから、スラブ人の部隊を作る気はなかったのですが、戦争が進むに従って兵士が不足し、ドイツ支配下のウクライナ政府主導で兵士が集められて、ガリツィア師団が創設されます。

ドイツはこれを対ボルシェヴィキの闘いだけの軍隊として認め、ウクライナ人たちはソビエトの支配から逃れるための民族独立のための軍隊として認識し、OUNの一部もここに参加し、総計8万人以上のウクライナ人が参加したと言われています。

ガリツィア師団は、赤軍との闘いで多くが戦死し、捕虜となった者たちはイタリアの収容所に入れられて、戦後は労働力不足に悩む英国に送られて強制労働に処せられました。1950年に解放されますが、ソビエト支配下のウクライナには戻りたがらず、かといってイタリアも英国も引き受けたがらず、約2,000人がカナダに移住しました。

※ウクライナカラーによるガリツィア師団のエンブレム。ガリツィアの紋章であるライオンを使っていますが、ガリツィアの紋章は黄色ではなく、金色とのこと、今もこれをウクライナの右派はこれを掲げていることがあり、ネオナチがSSのエンブレムとして掲げていることもあれば、民族主義者が対ソ民族戦争の象徴として掲げていることもあり。

 

 

デシュネス委員会の報告書

 

vivanon_sentenceロシアは彼らをナチスドイツの師団として扱い、ニュルンベルク裁判では、ガリツィア師団全体が戦争犯罪組織として有罪とされました(実際にその場で具体的個人が裁かれたのではありません)。ジーモン・ヴィーゼンタールを筆頭とするナチ・ハンターたちもそのような立場をとっています。

1985年にカナダ政府が設立した戦争犯罪者に関する調査委員会ケベック州の元裁判官でありジュール・デシュネスを代表とすることから(本書では「デシュネ」。仏語読みか英語読みかの違いかと思われます)、デシュネス委員会と呼ばれ、デシュネス委員会は1986年に、在カナダの元ナチ党員などについての報告書を出しています。

 

 

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