松沢呉一のビバノン・ライフ

ヴォルィーニ虐殺の真相は?—ステパーン・バンデーラからアゾフ連隊へ[付録編7](最終回)-(松沢呉一)

親衛隊第一四義勇装甲擲兵師団(ガリツィア師団)の評価—ステパーン・バンデーラからアゾフ連隊へ[付録編6]」の続きです。

 

 

ウクライナ人によるポーランド人の虐殺?

 

vivanon_sentenceチャールズ・アッシュマン/ロバード・J・ワグマン著『ナチ・ハンターズ』は、オーストラリアや英国、ドイツでのナチ追及の様子を追い、第13章と第14章では、元ナチを追及する人々にスポットを当てていて、これで本書は終了。

私はここでウクライナ人をどう評価するのかを拾ってきたわけですが、それだけを書いた本ではないながら、ナチスに追従したと見なされている国外組織の筆頭がOUNガリツィア師団などウクライナ人たちの団体であり、イヤでも登場するテーマです。他にラトビア人も同じ意味合いで登場しますが、登場頻度は圧倒的にウクライナ人が多い。

これらをどう扱うのかは今なお定まっておらず、ステパーン・バンデーラの評価も同じです。彼個人はあるところまで親ナチス、あるところから反ナチスってことでいいと思いますが、組織のリーダーとしての責任はどうなんかという疑問がなお残ります。

前回書いたように、OUNやガリシア師団がポーランドで民間人の虐殺をやったことはまず間違いなく、ユダヤ人虐殺も含まれているので、そこんところにバンデーラの責任も生じるという考え方です。

ナチ・ハンターズ』には詳しく書かれていないのですが、このことを改めてまとめておくことにしました。

ポーランド共和国下院のサイトより「ヴォルィーニでの大量虐殺の犠牲者のための追憶の日」(Dzień Pamięci Ofiar Ludobójstwa na Wołyniu)を知らせるページ

 

 

ヴォルィーニ虐殺

 

vivanon_sentence7月11日は、1943年から44年にかけて、ヴォルィーニ州でOUNやガリツィア師団が数万人に及ぶポーランド人やユダヤ人を虐殺したことを忘れないためのポーランドの国家的記念日です。

これが記念日となったのは2016年のことで、これを契機にポーランドはパレードを実施するなどの盛り上げを図り、ウクライナはこれに反発をして、両国の関係は険悪に。

ヴォルィーニは現ウクライナですが、ロシア帝政時代はポーランド第二共和制に組み込まれていました。1939年の独ソ不可侵条約締結によって、ポーランドは分割支配され、ヴォルィーニ州はウクライナ・ソビエト社会主義共和国の一部となります。多くのクライナ人たちはこれを歓迎し、ポーランド人や反ソ派ウクライナ人たちは収容所に入れられて強制労働の果てにほとんどは死亡。

1941年ナチスドイツが侵攻し、反ソ派の生き残りはこちらに合流。反ナチス派やポーランド人はパルチザンとなります。また、反ソかつ反ナチスに転じた勢力を中心にウクライナ独立を目指すウクライナ蜂起軍(УПА/UPA)が組織され、1943年7月11日から翌日にかけて、ポーランド人のみならず、ロシア人、チェコ人、アルメニア人らを約100ヶ所で虐殺。これが長期にわたる虐殺の中でもピークとされたヴォルィーニの悲劇です。

どの部隊がどこで何人虐殺したのかを確定させることは難しいですが、ウクライナ人でもこの動きに反対をして、ポーランド人救出に動いた人たちがいて、その人たちの証言が残っているため、虐殺があったこと自体はもはや動かせない。

ただし、ウクライナ側の主張は少し異なります。右派の民族主義者がそう言っているだけでなく、歴史家でもポーランドの主張とは違う解釈をしています。

 

 

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