【追悼】海保宣生・元理事長が遺してくれたもの
今週月曜日、思いがけない訃報が飛び込んできた。
2006年5月から2010年3月までモンテディオ山形のトップを務めた海保宣生さんが、4月19日に亡くなられたという。73歳だった。
昨年12月7日のJ1昇格プレーオフ決勝戦の試合前、味の素スタジアムの記者席で、在任当時と少しも変わらない大きな声と満面の笑顔で声をかけていただいたのが、お会いした最後となってしまった。
信念とアイディアと行動力にあふれ、何よりもサポーターに愛された方だった。後述する「ざまぁみやがれってんだ」の名台詞は、山岸のヘディングゴールと並ぶくらい、モンテ史に残るトピックスだと思う。簡単にではあるが、その足跡を振り返っておきたい。
海保さんは、2000年まで鹿島アントラーズFCの常務取締役を務め、定年退職後は地元の千葉県市川市で総合型スポーツクラブの立ち上げに尽力していた。モンテディオ山形との縁が結ばれたのは2006年。山形県からの依頼を受けた川淵三郎・日本サッカー協会会長(当時)の仲介で、当時のクラブ運営母体だったスポーツ山形21の理事長に就任する。当時の山形の予算規模は約7億円。「クラブの財政安定化」を第一目標に掲げ、観客増員のための施策やスポンサーへの働きかけに奔走する日々が始まった。自ら街頭に立ってチラシを配り、サポーターの輪の中に飛び込んで生の声を聞く。豪放磊落。ごまかしのない真っ直ぐな物言いに魅きつけられる人は多かっただろう。
海保さんは、かつてバスケットボール日本代表として1964年東京五輪に出場したアスリートでもある。「俺はサッカーのことはわからないからさ」と言い、現場に口を出すことはしない代わりに、「サッカーのわかる人」をクラブに招いた。
一人は、鹿島のカリスマスカウトとして実績を残し、既に現役を退いていた平野勝哉さん。「お金のないクラブがチームを強化しようと思ったら、下部組織から育てるか、新人を育てるか」だと考え、平野さんをアドバイザーに据え、獲得すべき新人の見極めを託した。平野さんが獲得に関わった山田拓巳、伊東俊は今、クラブの中心選手になっている。
そして07年10月にはNEC山形サッカー部時代からクラブを知る中井川茂敏取締役強化・運営統括をGMとしてチームに招く。ここから小林伸二監督の招聘、クラブ史上初のJ1昇格へと、歯車が回り始めたと言っていい。
「ざまぁみやがれってんだ」は、J1昇格1年目の09シーズン最終戦の後、セレモニーの理事長あいさつでの海保さんの言葉である。
「あれほど楽しみだったJ1のステージ。
もう終わっちゃいました。早いですね。
リーグ戦34試合、カップ戦6試合、天皇杯2試合。
42試合を、精一杯応援していただいて、ありがとうございました。
小林監督以下、コーチ陣、スタッフを見てやってください。
戦前の予想はダントツの最下位。
ざまぁみやがれってんだ。
ざまぁみやがれ!
15位ですよ、15位!
みんなを、ほめてやってください!」
シーズン最終節セレモニーでのクラブトップのあいさつとしては異例の「ざまぁみやがれ」。しかし、これほどあの場にぴったりの言葉はなかったのではないか。スタンドからは笑いと歓声と拍手が湧き、あいさつが終わるとスタジアムは“海保コール”に包まれた。
この時、海保さんの後ろに並んでいた選手はすでに残り少なくなってしまったが、その一人である石川竜也が言う。
「あの時は、みんな笑った。降格予想されていた中で残留して、どうだ!みたいな気持ちで胸を張っていた時に、一番上に立つ人がみんなの気持ちを言ってくれた。あったかくて、熱くて、現場の選手やスタッフの気持ちと同じような目線でいてくれた、素晴らしい方でした」
在任中に心筋梗塞の発作に見舞われたこともあり、2010年3月に勇退。しかし千葉に戻られてからも無理のない範囲でスポーツ振興の仕事に携わっていたと聞く。関東アウェイのゲームに駆けつけることも多く、お会いするといつもにこやかに握手の手を差し出して下さった。
プロのサッカークラブとは、チームだけで戦うのではなく、クラブとして強くならなければならないのだという思想を、モンテディオ山形に植え付けてくれたのが海保さんだったと思う。海保さんの存在なしに、今のモンテディオ山形はあり得なかった。もうお会いできないのが寂しい。どうぞ安らかにお休みください。
(文:頼野亜唯子)