Dio-maga(ディオマガ)

〈Dio-maga〉インタビュー:笹原義巳 GKコーチ 厳しく、あたたかく、ファミリーとして《前編》(1)

笹原コーチ
モンテディオに関わるさまざまな人に世界観をお聞きする〈Dio-maga〉インタビュー
3人目に登場していただくのは、笹原義巳GKコーチ。山岸範宏選手のミラクルなゴールや“イケメン”摂津颯登選手の加入など、話題豊富で個性豊かなGK陣をファミリーとしてまとめている笹原GKコーチの手腕と、知られざるGK世界に迫る。
《前編》は笹原GKコーチの経歴や、ゴールキーパーのトレーニングメニューなどについてのインタビューをお届けします。
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■「少しでも自分が助けになれればと思っているので」

Q:試合後、鳥栖時代に指導した浅井俊光選手にキーパーグローブをあげていました。教え子にはいつもそうしているんですか?(注:このインタビューは、5月11日ブラウブリッツ秋田とのトレーニングゲームの後に行われています)

「頑張ってるんでねえ。アイツも大卒から教えていて、やっぱり私にとってはファミリーなんです。少しでも自分が助けになれればと思っているので、いつもあんな感じです。でも試合が終わったあと、アイツの第一声で『いまできるのはササさんのお陰です』って言われて、『バカ野郎、吐かしてばっかいたじゃねえか』と。ちょうど摂津(颯登)が横にいたんですけど、その前で『俺、月に3回は吐いてましたからね』って、そういう話をしていました。

『お前、何歳になったよ』『32です』『そらそうやなあ、俺が41になったもんなあ。俺も歳取ったなあ』って話をして。ほんと仲良かったんです。以前、シュナ(シュナイダー潤之介、現奈良クラブ)がヤフーの特集が出ていて、タイトルが『鳥栖のファミリー』で、『お前、俺のをパクりやがって』と思ったんですけど、ファミリーで切磋琢磨してやっていました」

Q:笹原コーチは現役引退後に現役復帰した経歴を持っていますね。
「2001年に川崎フロンターレで現役引退して、2004年に鳥栖でキーパーコーチをやっているときに復帰しました。それで、ネタで作ったのが笹原の『ササ』、33番だったんです。いま林君(彰洋)が付けてますけど」

Q:背番号のことですね。

「鳥栖には私のはとこ(笹原脩平)がいるので、それに付けてもらいたいんですけど。33っていうのは、それまでなかった番号で、それ以降は4番目のキーパーの番号になっていたんですよ。当時のキーパー3人が次々に怪我をして、そういうネタがあって現役復帰したんです」

Q:コーチからの現役復帰ですね。

「まずああいうのって、指導者登録の抹消から始まるんですよ。指導者の抹消のときに、リリースが出るじゃないですか。フロンターレのホペイロの人とかみんなから電話があって、『ササ、お前、(松本)育夫さん(当時鳥栖監督)とケンカしたんか?』って。『違うのよ、1ヶ月限定で現役復帰すんのよ』って言って。大変でしたよ。決まった瞬間から朝イチでメディカルチェックに行かされました」

Q:結局、試合でプレーすることはなかったんですね。

「してないです。みんなうまく復帰してきたので、とりあえずは1ヶ月だけということでした。(ウォーミング)アップはやるんですけどベンチには入れないので、ベンチの後ろの別の場所から見ていました」

Q:ふだんの練習は変わらずキーパーコーチとしてやっていたんですか?
「選手としての練習もやるんですよ。紅白戦、出てました。だから大変でしたよ。で、B契約だったんです。過去にA契約してるとC契約ができないんですよ。それまでA契約しかしたことがなかったので、『ああ、B契約ってこうなってるんですねえ』みたいな」

■「キーパーはこれぐらい追い込んでも大丈夫なんだな、という基礎ベースができた」
指導

Q:その前の引退はフロンターレ時代ですね。

「あのときもいろんな人が一気にやめるときで、浅野のテツさん(哲也)さんだったり、(向島)建さん、(伊藤)彰さん、阿部ちゃん(良則)とか、いっぱいそういうメンバーがいて、ちょうどそのときに天皇杯のベスト4まで行ってるんですよね。神戸のホームのスタジアムが最後だったんです。12月24日が準決勝だったですけど、終わった瞬間にみんなロッカーで大泣きですごかったということもあったんです。そのときの監督がイシさん(石﨑信弘)です」

Q:そこで引退したあとは?

「学校の先生やってました、で、(高校サッカー)選手権に出してます」

Q:長野の地球環境高校ですね。確か監督は松本育夫さんでしたが…。

「サッカー部の顧問は私だったんです。監督は育夫さんだったんですけど、教員免許を持っていないと顧問にはなれないので。私が体育の教員だったので、顧問会から何から全部出て、休みがなくて大変でした。学校の授業も持っていたので。通信なんですけど、担任で80人くらい生徒を持っていて、担任も2つグループがあって両方やっていました。その間に選手権やインターハイに出場しました。長野県の『初出場、初優勝』をやっちゃいました」

Q:菅井直樹選手(ベガルタ仙台)がいた山形中央高校が選手権でベスト8になった年に、地球環境高校と対戦していた記憶があります。

「そうです、あのときです。菅井が出てきて流れが変わっちゃいましたからね。でも部員14人で選手権出てるんですから」

Q:14人ですか! できたばかりの高校で?

「そうです。集めてるわけじゃないんで、めちゃくちゃ下手くそなんです、みんな。それを半年間鍛えて。練習試合でやった相手が市船(市立船橋高校)だったり、帝京だったり、前橋育英だったりとか。最初、前橋育英に6-0で負けてたのが、最後の選手権予選前になったら1-0とか2-0で負けるぐらいになったんです。いま考えるとあれもミラクルだなあと。あんな経験できないな、みたいな感じだったですから、まあびっくりしました」

Q:ふだんの指導は笹原コーチが?

「私がキーパーをやって、育夫さんともう一人コーチが、堀内さん(龍太郎)という横浜F・マリノスのユースのコーチとかやっていた人がいたんですけど、まあすごかったですよ。スパルタってあれだなと。そこが指導者としての始まりですけど、キーパーはこれぐらい追い込んでも大丈夫なんだな、怪我をしないんだなという基礎ベースができて、私にとっては非常にいい勉強になった時期でした。自分がそれまでに教わったキーパーコーチがいっぱいいたので、その人たちのしごきを『どんなきつさだったんだろう』と思い出しながら。自分はきつかった記憶しかないんですけど、コイツらだったらどれぐらいもつんだろうというのをやったり。すごい楽しかったですよ。自分がチャレンジできた1年半でした。それで選手が伸びてくれたりしたので、良かったのかなあと思っています」

《前編》(2)へ続く

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