Dio-maga(ディオマガ)

【円コラム】忘れっぽい者の独り言


3年ぶりに宮城県・南三陸町を訪れた。3年前は自分の意志で行ったが、今回は同行した取材で南三陸の被災地見学ルートがたまたま組まれていた。「被災地」のことは常に気にしてはいたつもりだが、前回から3年経っていたことには正直驚いた。

震災遺構として、取り壊されずに20年間遺されることになった南三陸町防災対策庁舎も様変わりしていた。サビ止め作業中とのことで付近の敷地に入ることができず、むき出しだった鉄骨もすっぽりとシートに覆われていたが、それ以上に変化を感じたのは、周囲の土地のかさ上げが進んでいたこと。庁舎を取り囲むように、あちらこちらに点在する土を盛った高台が、迷路のように視界を塞いでいた。

3年前、防災対策庁舎の敷地内に車を停め、そこから歩いて海まで行ってみた。防災対策庁舎は見通しのいい平地にポツンと取り残されたように建っていた。更地になっていたのは、もとは木造の建築物があった場所。海にたどり着くまで、目にした建物は、鉄筋コンクリート製のホテルやガソリンスタンドの屋根部分など数えるほどしかなかった。すでに人の気配がなくなったその建物の隣では重機が何台か稼働していた。付近の道路にはダンプなどの車両が頻繁に行き来し、風で砂ぼこりが常に舞っている状態だった。

防災対策庁舎のような震災遺構は、何が起きたのかを後世に伝え得る重要な資料には違いない。ただ、そこだけピンポイントで被災したわけではない。庁舎周辺一帯が津波に飲み込まれ、そこにあった日常の生活や、あるいはいくつもの生命が失われている。沿岸から庁舎までは約700メートルあるそうだ。街全体が津波に飲み込まれる上から目線の映像は何度も目にしたが、現地に立ち、この一帯が高さ10数メートルの水に覆われていく様子を想像すると、もはや人間には太刀打ちできない事態だということも納得できた。南三陸町では850名が亡くなっている。

今回、同行させていただいた取材は、一般社団法人 日本プロサッカー選手会(JPFA)が行っている社会貢献活動のひとつ、「ふれあい活動“グリーティング DAY”」だ。24名が参加した現役Jリーガーの中には、震災時にベガルタ仙台に所属していた3選手もいたが、3選手ともすでに仙台を離れている。

「仙台とか宮城にいなかったら、震災のことは忘れがちになる」と話したのは角田誠選手(清水)。関口訓充選手(C大阪)は「宮城県のサッカー協会の人とも話をしましたが、子どもたちが少なくなってきているということでした」と人口減少を心配していた。「震災を経験した当事者となるとベガルタにも少なくなりました。離れても頑張ってるんだよというところを見せなきゃいけない立場ではあると思うので、みんな全国に散らばってますけど、そういったところを発信していきたい」と話したのは渡辺広大選手。その渡辺選手も、来シーズンには遠く山口にプレーと生活の拠点を移すことになった。

あの震災の風化は進んでいる。そしてその間にも、広島の土砂災害や熊本を中心とする地震災害など、災害が上書きされている。山形は太平洋側3県とは比較にならないほど被害は少なかったが、大きな揺れや停電、ガソリンや食料の供給不足など恐怖や心細さを体験した。もうこの先はサッカーどころではないと覚悟した瞬間も、再びサッカーとともに生活できるありがたみも感じたはずだ。そうした気持ちが薄れてはいないか。常時忘れずにいることは不可能でも、ちょっとしたきっかけで思い出したり、思いを至らせることはできないか。年末に、そんなことを考えている。

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