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【頼コラム】たとえば気鋭のルーキーが今ここにいる奇跡

フリーテーマで長めのインタビューができる時は、選手の来し方を聞くことにしている。興味があるのはサッカーを始めたきっかけよりも、プロになれるかなれないかの分岐点がどこにあったのか、ということだ。当然のことながら、物心ついた時には将来を嘱望されていた、なんて話は聞いたことがない。生まれ持った能力もさることながら、他のどんな楽しそうなことよりもサッカーのための努力を選び続けた者たちが、周りの環境や人との出会いに助けられ、さらに数少ない「見出されるチャンス」をつかんでプロにたどり着く。その道筋は千差万別で、運命のような偶然が作用している例も少なくない。

最近では、坂元達裕選手の話が興味深かった。

ドリブルが楽しくて、無邪気にプロに憧れていた小学生は、中学生になると厳しい現実に直面する。

「小学生の頃は“夢は持てば叶う”と言われて、なれるんだと思っていたけれど、中学でFC東京の下部組織に入ると周りのレベルも上がり、試合にも出られなかった。口では『プロになりたい』と言っていましたけど、自分はプロになれるようなレベルじゃないなと思っていました」

ユース昇格は期待すらせず、前橋育英高へ。3年時に選手権準優勝を遂げるも、プロからの誘いはなく大学に進む。プレー面での飛躍の転機は前橋育英時代にあるようだが、東洋大への進学が後に思わぬ形でプロへの道を拓くことになる。

大学時代の実績は、プロになる選手としては平凡なものだ。4年時に目標としていた関東選抜チームには選ばれたものの、大学は全国大会の舞台に上がれず、プロからの声はかからない。坂元の中に「ダメかな?」という思いが湧き上がる中、山形への練習参加が実現する。それも、山形側から声をかけたわけではない。「こちらから、練習参加させてもらっていいですか? という感じだったと思います」と本人から聞いた時は少なからず驚いた。今季の活躍ぶりから推せば、複数のクラブの練習参加を経て、争奪戦を制して獲得したイメージしかなかったからだ。

坂元にとって(今となっては山形にとって)ラッキーだったのは、東洋大の監督が古川毅氏だったこと。2003-2004年に山形に在籍したセンターバックだ。私は存じ上げないのだが、現在栗山直樹選手のチャントとして歌われている「山形の壁」の元祖だと聞いた。解説者の越智隼人さんは1年間だけ一緒にプレーしており「ツヨシさんは真面目で論理的。若い選手にいろいろ教えてくれたり、『どうした?今日元気ないぞ?』と声をかけてくれたりして、選手の頃から“先生”と呼ばれていました」と述懐する。

その古川監督の打診を受けて、坂元選手の山形への練習参加が実現した。実は高山明泰強化部長によれば、坂元選手のことを全く知らなかったわけではない。広範囲なスカウティング活動の中で、大枠の獲得候補リストの中には入っていた。だからもしかしたら古川監督からの依頼がなくても声をかけていた可能性はあるのだが、練習参加のタイミングは違ったものになっていただろう。その場合、坂元選手が山形フロントに正式オファーを決断させるパフォーマンスを出せていたかどうかは全くの未知数だ。それでプロの道が閉ざされた可能性もあるし、他のツテで他のクラブに縁づいた可能性も、もちろんある。恐ろしい。

選手の数だけ「プロへの道」のドラマがあり、同様にまた「山形への道」へのドラマもある。それぞれの背景を持つ選手たちが今、一つのチームに集い、一つの目標に向かっている。今、私たちが目の当たりにしているのは、その奇跡のような融合体が編む「J1への道」へのドラマだ。再上映はない。心して目に焼き付けたいと思うのである。

文・頼野亜唯子

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