「ノンフィクションの筆圧」安田浩一ウェブマガジン

【無料記事】沖縄にも保守系の新聞は存在した

 仲村致彦さん(77歳・那覇市)とは、彼の自宅マンション1階に入居する小さなスーパーの中で会った。店内の端にはテーブルがいくつか並べられ、そこで飲食することが可能となっている。元祖イートインとも言うべき、沖縄には古くから存在する様式だ。

 初対面の挨拶もそこそこに、仲村さんはまるで自宅の冷蔵庫を開けるかのような手つきで陳列ケースの中から缶ビールを2本取り出すと、1本を私に手渡し、こちらが礼を言う前にぐびぐびとビールを喉に流し込んだ。

 文学青年だった仲村さんが『琉球新報』に入社したのは1958年である。日本復帰にはまだ遠く、米軍政下の沖縄は戦争の傷跡がいたるところに残っていた時代だ。

 警察、港湾などを担当し、その後は経済部記者を務めた。

 仕事は楽しかったが、会社の雰囲気に、わずかな「引っかかり」も感じていた。

 理由は──仲村さんの思想的立ち位置が「保守」だったからである。

「当時はどこの新聞社もそうだと思うが、革新陣営を支持する人が多くてね。僕は学生時代から文学を通して精神の自由を追求していたし、そうした観点から社会主義や共産主義を嫌悪していたんだよ。時代背景を考えれば無理もないとは思うが、新聞社に限らず、あの頃はまだ、社会主義的なものに憧れている人は少なくなかった」

 社会主義が一定の説得力を持っていたのは、戦前戦中といった時代の反動でもあろう。

 そうした「引っかかり」も手伝ってか、60年代半ばには地元の商工会議所からスカウトされたこともあり、『新報』を退職した。

 67年のことである。仲村さんは沖縄在住の作家・嘉陽安男に呼び出された。自身の戦争体験を基にした小説「捕虜」「虜愁」「砂島捕虜収容所」の捕虜三部作などで知られる嘉陽は、文学活動における仲村さんの師匠でもあった。

「今度、沖縄に新しい新聞ができる」

 嘉陽は仲村さんにそう告げた。 

「僕が編集局長になることが決まった。キミもぜひ記者として手伝ってほしい」

 新報ともタイムスとも違う、保守色を鮮明に打ち出した新聞だという。しかも地元経済界が支援するので間違いはないと嘉陽は強調した。

 ちょうど商工会議所の退屈な仕事に飽きてきたころでもあった。仲村さんは師匠の頼みを快諾する。

 仲村さんが創刊メンバーとして加わった新聞──それが『沖縄時報』だった。

 同紙創刊の経緯に関しては、『沖縄の新聞がつぶれる日』(月刊沖縄社)のなかで元同紙労組委員長の山城義男が「第三の日刊紙・沖縄時報始末」という回想記を書いている。

 それによれば、『時報』創刊に動いたのは、『新報』『タイムス』両紙の革新的紙面に不満を持っていた沖縄財界の重鎮たちだったという。

 67年3月、国場組社長・国場幸太郎の自宅に、星印刷社長・糸洲安剛、大城組社長・大城鎌吉、元琉球日報専務・野村健、そして作家の嘉陽安男らが集まった。共通するのは全員が既存の『新報』『タイムス』両紙の論調を嫌っていたことである。

 この場で新しい新聞の創刊が話し合われ、国場が当座の設立資金として必要な2万ドルの入った封筒を皆に見せた。

 社長には大衆金融公庫総裁を勇退することが決まっていた崎間敏勝(元琉球政府法務局長)の就任も決まった。

 創刊号は同年8月1日に発行された。

 1面トップには「沖縄時報発刊す」の大見出しが躍り、「自由と正義を主張」「新聞の使命をつらぬく」「不偏不党を堅持」といった小見出しが続く。

 その日の社説は次のようにつづっている。

<沖縄の言論界は長いこと何かしら片肺をどこかに置き忘れてきたようなものだった。頭のほうも半分だけが働いて、他の半分は休止を強制されてきたような感じだった>

<「声なき声」を従来の各個撃破による軽視と翻弄の境遇から救い出して、住民大衆の耳に達する「声ある声」にするため、言論の市場を広げようとするものである>

 同紙は格調高く、『新報』『タイムス』による寡占状態を「片肺」と断じ、その状況を覆すために、第三の日刊紙をスタートさせたのであった。

 沖縄はおろか全国のマスコミが革新びいきの中、『時報』は露骨なまでに自民党や財界の側に立ち、連日の紙面を展開した。

「教職員になかにアカがいる」「アカハタ教育はご免だ」といった反共記事がお家芸で、当然ながら革新陣営からは睨まれた。翌年の琉球政府行政主席選挙は事実上、西銘順治と屋良朝苗の一騎打ちだったが、『時報』は西銘陣営に肩入れし、屋良のスキャンダル探しに躍起となった。

 揺らぐことなく自民党・財界の側に立ち、革新陣営を攻撃する──といった紙面を考えれば、購読者の増加はともかく、少なくとも資金だけは潤沢な援助があったのではないかと誰もが考えよう。ところが、これだけ自民党・財界に尽くしたにもかかわらず「ほとんど援助はなかった」と話すのは仲村さんである。

「当時の財界は口先だけでね。注文はするがカネは出さない。しかも経営陣だって新聞経営の素人が大半の寄せ集めだから、すぐに行き詰ってしまった。財界の希望でできた新聞なのに広告もさっぱり集まらなくてね。唯一、琉映貿(琉球映画貿易株式会社)の宜保俊夫だけが定期的に映画宣伝の広告を出してくれたくらいかな」

 宜保は映画館経営など興業主として知られていただけでなく、暴力団「東亜友愛事業」(東声会)の沖縄支部設立にかかわるなど、沖縄裏社会の顔役としても認知されていた人物だ。

「いずれにせよ準備不足だった。脇の甘い見切り発車だったんですよ。取材に必要な経費はおろか、給与の遅配まではじまった。会社幹部は『そのうち笹川良一が支援してくれる』『米軍が金をだしてくれるらしい』などと社員の動揺を抑えようとしたが、いつまでたっても資金繰りはよくならない」

 同紙社長の崎間敏勝(元琉球政府法務局長)も、自ら地元経済人を訪ね回り、資金繰りの協力を頼みこんでいたという。回想記によれば、崎間は国場幸太郎の自宅に朝がけしては金を引っ張り、それを社員の給与につぎ込んでいた。

 崎間は琉球石油の稲嶺一郎社長(稲嶺恵一元知事の父親)をも訪ねて資金繰りを要請したが、そのときは「ドブに捨てる金はない」と吐き捨てるように言われたらしい。

 そうしたこともあって、当然ながら購読者数もまったく伸びない。創刊半年で最大瞬間風速的に5万部に達したことはあったが、後に急坂を下るように転落していく。

 そのうち労組が結成され、お定まりの労働争議がはじまる。社員も次々と退社していった。

 創刊から2年半後の70年3月、ついに第三の日刊紙『沖縄時報』は幕を閉じるのであった。

「敗因は、県民の支持がなかったことに尽きる」

 仲村さんはそう言い切った。

「当初の約束通りに財界が支援してくれなかったこと、あるいは記者クラブ加入を拒まれたことなどを理由に挙げる者もいるが、要は、読んでもらえなかっただけですよ。県民読者は『時報』を選択しなかったんです」

 ちなみに仲村さんの新聞人生は、その後も続く。

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