「ノンフィクションの筆圧」安田浩一ウェブマガジン

官から民まで貫かれる沖縄ヘイト〜「欠陥機オスプレイ撤去を求める緊急抗議集会」レポート

「私たちに静かな沖縄を返してください」

 沖縄で大規模な「抗議集会」が開催されるたびに、私はあの日を思い出す。
 19951021日──宜野湾市で行われた「県民総決起大会」。米兵による少女暴行事件に抗議する集会に、85千人が集まった。
 県内外から多くの報道陣も駆け付けた。私もその一人だった。エロ記事が売りの週刊誌記者に書けることなど多くはなかったはずだが、私はとにかく現場に足を運びたかった。
 開会して間もなく、白いセーラー服に身を包んだ女子高校生が壇上に立った。
 上空をマスコミ各社のヘリコプターが旋回していた。彼女はちらっと上に視線を向けた後、マイクに口を寄せて声を上げた。
「もう、ヘリコプターの音はうんざりです」
 意外な「開口一番」だった。
 その瞬間、会場のざわめきが消えた。
 日々、基地の騒音に悩まされている住民の心情を伝えると同時に、何か事件があったときだけ沖縄へ身を寄せ、理解者のごとく振る舞うマスコミへの痛烈な皮肉を投じたようにも聞こえた。私も、心の中を見透かされたような気持ちとなって、居心地の悪さを感じた。
 彼女は地元の「普通の高校生」であると自己紹介した後、思いのたけをぶつけた。
 米兵の犯罪に対する怒り。基地に対する怒り。それを放置、容認しているかのような日本政府への怒り。
 そしてこう訴えた。
「基地があるゆえの苦悩から、私たちを開放してほしい」
「私たちに静かな沖縄を返してください。軍隊のない、悲劇のない、平和な島を返してください」
 多くの人が押し黙ったまま、彼女の言葉を聞いていた。ハンカチを目に当てている人もいた。私は、なにか胸の中がかーっと熱くなったことだけを覚えている。
 あれからちょうど20年が経った昨年の同じ時期に、いまは一児の母となった彼女に会った。堅固な意志と決意を感じさせるまっすぐな瞳は、当時と何も変わっていないように感じた。一時期は女優として活躍していたこともあっただけに華やかなオーラも漂っている。
「ヘリコプターの音はうんざりです」。20年前のあの日、冒頭で放った一言は、完全なアドリブだったという。
「急に思いついたんです。この騒音は私たちにとっての日常でもあるんだということを、訴えてみたくなったんです」
 彼女はけっして「闘う高校生」などではなかった。演劇部に所属しながら、役者になることを夢見る、まさに「どこにでもいる18歳」だった。壇上に立ちながら、一番に気になったのは、海から吹く風で前髪が乱れてしまうことだったという。「いやだなあ、いやだなあ」と思いながら何度も前髪を手で直した。
 しかし、切実さに満ちた彼女の言葉が、大きなうねりを起こす。
 静かな沖縄を返してほしい──その願いが、そして人々の怒りが、政治を動かした。日米両政府によって「沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会」(SACO)が設置され、沖縄の基地負担軽減が合意されたのだ。
 だが、あれから何か変わったのか。
 普天間飛行場の移設は難航し、多くの人が反対する辺野古での新基地建設が進められようとしている。米軍北部訓練場の約半分はようやく返還されたが、それも集落近くへのヘリパッド移設を前提とした条件付き返還でしかない。要は米軍基地の機能強化が進められているだけだ。
「違う。そんなことじゃない」
 彼女はそう訴えた。
「私たちが望んだのは基地を少しでもなくすことであって、県内の他の場所に移すことではなかったはずです。それになにより、あまりに不公平な地位協定の問題だって、いまもそのまま残されているじゃないですか」
 そう、あの時から、沖縄の置かれた状況は変わっていない。米兵による事件はなくならない。事故は相次ぐ。住宅地に隣接した基地は1ミリたりとも動かない。騒音は止まない。
 「負担軽減」はどこにいった。そもそも、一方的に奪われたものを返せと主張しているだけなのに、条件を設けるとはどういうことなのか。


       4千200人が集まった抗議集会

「沖縄県民を日本国民と見ていない

 1222日、北部訓練場の一部返還に伴う「返還式典」と、オスプレイ墜落事故を受けた「抗議集会」が、同じ名護市内で同時開催された。
 前者に対して、多くの県民が冷ややかであったことは当然だろう。土地を強奪した当事者が「返してやるのだから祝え」と音頭を取ったところで、踊る者など少ない。奪ったものを返すのは当たり前である。しかも負担軽減どころか、沖縄は新たな負担を強いられようとしているのだ。そのうえ数日前に、オスプレイの墜落事故があったばかりだ。
 高江ではオスプレイの騒音に耐えられず、住み慣れた土地を離れてしまった人もいる。
 いったいどうやったら祝祭気分に浸ることができるというのか。
 在沖米軍も日本政府も、まるでわかっていない。
「(オスプレイ事故を)政治問題にするのか。住民に被害を与えなかったことに感謝すべきだ」などと言い放った植民者意識丸出しの者たちを、どんな顔して祝うというのか。
 戦後71年が経過しても、沖縄は「空からの恐怖」におびえ続けている。これまで、墜落や部品の落下などで、戦後の沖縄では32人が犠牲となった。負傷者も230人にのぼる。
 1950年、燃料タンクが落下し、3歳の女の子が死亡した。
 59年には戦闘機が小学校に突っ込み、児童や住民18人が死亡した。
 65年にもトレーラーが落下し、小学校5年生の少女が死亡している。
 2004年に米海兵隊ヘリが沖縄国際大学に墜落した事故も記憶に新しい。このとき事故現場は米軍によって封鎖され、地元の警察も消防も立ち入ることが許されなかった。唯一、敷地内への立ち入りを許された日本人は、ピザ店のデリバリースタッフだけだった。今回の事故でも、捜査の主導権は米軍側にある。実際、日本側で捜査権を持つ第11管区海上保安本部は米軍側に捜査の申し入れをしたが、何の回答もなかったという。
 実は、墜落事故の起こる前の数日間、沖縄ではオスプレイによる物資の「吊り下げ訓練」が行われていた。キャンプ・ハンセンに隣接する宜野座村城原区内では、大形の箱のようなものを吊り下げながら飛行訓練するオスプレイが連日、見受けられたのだ。米軍敷地内ならばともかく、人が住む集落の真上である。通常では考えられない危険な訓練だ。
 区内の住む農家の男性は、私が訪ねたとき、農作業の手を休めて上空を見つめていた。
「ひどい話ですよ。ここに人間が住んでいることをどう考えているのか。安保条約もあるし、これまではある程度の我慢も仕方ないと考えてきましたが、もう限界です。絶対に許せない」
 そうした状況下で、墜落事故が起きたのだ。
 返還の祝賀に対し「まやかし」「ごまかし」「ペテン」といった批判が相次ぎ、翁長雄志知事が「返還式典」を欠席し、「抗議集会」に参加したのも、当然のことであった。
 名護市21世紀の森屋内運動場で開かれた「欠陥機オスプレイ撤去を求める緊急抗議集会」(主催・辺野古新基地を作らせないオール沖縄会議)には、県内外から4200人(主催者発表)が詰めかけた。
 開会直前に会場入りした翁長知事が姿を見せると、会場からは大きな歓声、拍手、指笛が飛び交った。
 壇上に立った翁長知事は、事故への「強い憤り」を表明した後、次のように話した。
「四軍調整官(※在沖米軍トップ)は抗議に訪れた副知事に対し、県民は感謝すべきだと話をした。これでは良き隣人と言うわけにはいかない。日本政府は米軍の要求を最優先し、わずか6日後に飛行再開を一方的に認めた。県民を日本国民と見ていないとしか受け止められず、信頼関係を大きく損ねるものだった」
「北部訓練場ではオスプレイが東村高江に近いヘリパッドで運用されるため極めて問題だ。政府が北部訓練場の返還式典を強行したのは、県民に寄り添う姿勢が見えないと言わざるを得ないため、沖縄県としての出席を取りやめた」
「今後も県が持つあらゆる手法で辺野古に新基地をつくらせない公約実現に不退転の決意で取り組む」
 そして、スピーチをうちなーぐちで結んだ。
「ぐすーよー、むるさーに、ちむてぃーちなち、くわぁーうまがぬために、ちゃーしんまきてーないびらん。辺野古新基地つくらさんぐとぅし、オスプレイうちなーからうらんないびーん、かんなじつくらさんねー、ちばらなやーさい」(心を一つに子や孫のためにどうしても負けてはいけない。新辺野古基地を造らせないことで、オスプレイが沖縄からいなくなる。必ず造らせないように頑張りましょう)」
 さらに集会の最後には、オール沖縄会議共同代表の玉城愛さん(学生)が、次のようにアピールした。
「オスプレイが墜落事故を起こし、学生として、ウチナーンチュとして、日本国民として、日本は独立国ではなく米国の属国ではないかという印象を抱きました。稲田防衛相が『墜落ではなく不時着』だと繰り返す発言は、米国の説明通りに日本は対応しますという姿勢にも感じます。日本は独立国ではないと実感しました。(中略)一つになってオスプレイの撤去を求めましょう!」

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