「ノンフィクションの筆圧」安田浩一ウェブマガジン

水俣病と差別 石牟礼道子を悼む

 1959年春。作家・石牟礼道子は初めて水俣病の患者さんが入院している病院を訪ねた。
 ある病室を覗くと、ベッドから転がり落ちたまま、病室の床に仰向けで横たわっている老人の姿が目に入った。釜鶴松という名の水俣病患者だった。水銀に冒され、やせ衰えたからだが、もはや死を目前としていることは誰の目にも明らかだった。
 釜鶴松のくぼんだ肋骨の上には、なぜかマンガ本が「衝立のように」置かれていた。
 この光景を、石牟礼は『苦海浄土』(講談社)で次のように記している。

 肋骨の上に置かれたマンガ本は、おそらく彼が生涯押し立てていた帆柱のようなものであり、残された彼の尊厳のようなものにちがいなかった。まさに死なんとしている彼がそなえているその尊厳の前でわたくしは──彼のいかにもいとわしいものをみるような目つきの前では──侮蔑にさえ値する存在だった。

 安らかにねむって下さい、などという言葉は、しばしば、生者たちの欺瞞のために使われる。このとき釜鶴松の死につつあったまなざしは、まさに魂魄この世にとどまり、決して安らかになど往生しきれぬまなざしであったのである。

 それまで水俣病に「悶々たる関心」を寄せているだけだった石牟礼は、その日を境に、まるで何かにとりつかれたように、患者さんを訪ね歩いた。

 釜鶴松のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ。

『苦海浄土』は、石牟礼のからだに「移り住んだ」患者さんたちの苦悩であり、うめき声であり、希望と絶望を往来し、疲弊したかすれ声の結晶である。
 初めて読んだとき、背中の筋肉がこわばるのを感じた。ページをめくる指が震えた。患者さんの「魂魄」が、全身に突き刺さるような痛みを感じた。

 銭は1銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。上から順々に、42人死んでもらう。奥さんがたにも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に69人、水俣病になってもらう。あと100人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか。

 ある患者さんが発した声は、石牟礼の筆を通して私の胸にも刻印された。
 その石牟礼が亡くなった。90歳だった。いつか会いたいと思っていながら、その機会を逸してしまった。残念でならない。

(残り 2242文字/全文: 3202文字)

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