「ノンフィクションの筆圧」安田浩一ウェブマガジン

炭鉱事故が遺したものは何か

 宇部市(山口県)の床波海岸を初めて訪ねた。山口宇部空港から車で20分ほどの場所だ。

 堤防を乗り越え、砂浜に立つ。周防灘は鏡のように凪いでいた。

 沖合に目をやると、海面から2本の円筒が突き出ていた。海中に無理やり土管を埋め込んだかのような不自然な光景を見ていると、なにか落ち着かない気持ちになる。心が波立つ。ザワザワと何かが騒ぐ。

 かつてこの場所に、海の底に、炭鉱があった。

 1914年に開坑し、終戦時まで操業を続けた長生炭鉱である。最盛期には1千人を超える労働者が働き、年間15万トンの石炭を産出した。

 海底から伸びる2本の円筒は、炭坑内の換気用に設けられた排気筒だ。地元の人はこれを「ピーヤ」と呼んでいる。そこに炭鉱があったことを伝える、ただひとつの残痕だ。

 この不自然な光景ゆえに、ネット上では「不気味」「不吉」といった書き込みも散見される。幽霊が出るのだと無責任な書き込みもあった。

 海の底に沈んでいるのは、けっして幽霊なんかじゃない。地上に出ることのできなかった者たちの恐怖と苦痛、そして悲しみが閉じ込められているのだ。

 長生炭鉱で大惨事が発生したのは1942年2月3日。日米開戦から2か月後のことだ。沖合の坑道で落盤が発生し、海水が一気に流れ込んだ。逃げ場所はない。炭鉱労働者は瞬時にして真冬の冷たい海に飲み込まれた。

 当時、新聞はこの事故を次のように報じている。

 <三日朝九時半ごろ宇部市西岐波村長生炭鉱に海底陥没のため斜坑々口から約一千メートルの箇所より浸水し、入坑中の三百余名坑夫中午後五時までに判明した生死不明者は百八十一名である>(読売新聞42年2月4日)

 他紙記事もほぼ同じような内容で、事故の発生と181名の犠牲者数だけが報じられたに過ぎない。戦時中最大の炭鉱水没事故にもかかわらず、その後も詳報は一切なかった。

 終戦と同時に炭鉱は閉鎖され、遺体は引き上げられることもなく、いまも海の底で眠ったままだ。

 犠牲となった労働者の多くは朝鮮人だった。その数、136名。犠牲者全体の7割を占める。

 『宇部市史』では「長生炭鉱への朝鮮人強制連行と水没事故」と小見出しが付された以下の記述を見ることができる。

 <長生炭鉱は特に坑道が浅く、危険な海底炭鉱として知られ、日本人坑夫から恐れられたため朝鮮人坑夫が投入されることになった模様であり、その当時「朝鮮炭鉱」と蔑称された>

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