「ノンフィクションの筆圧」安田浩一ウェブマガジン

人権は入管の門前で立ち止まる~入管の歴史を歩く(前篇)

長崎県佐世保市・JR南風崎(はえのさき)駅

 ひと群れの朝鮮人がその小さな駅におりたのは夕暮れ刻(どき)だった。一行は長崎本線の諫早駅で大村線にのりかえ、とうとう目的地の南風崎駅に着いたのだ

 芥川賞作家・李恢成さんの自伝的小説『百年の旅人たち」の一節である。

 李さんは1935年、日本の領土だった樺太(現サハリン)の真岡で、朝鮮人の両親の下に生まれた。

 終戦後、同地に住んでいた日本人の引揚が始まるが、朝鮮人は放置された。日本への引揚対象に、朝鮮人は含まれていなかったのだ。「日本人」になれと強要しながら、最後には「日本人」ではないのだと切り捨てる。国家とは実に勝手なものだ。

 李さん一家は樺太を脱出し函館に至るも、GHQによって韓国へ強制送還されることになった。そこで、朝鮮半島への船が出る長崎県佐世保市まで、一家は押送列車で運ばれた。国家によって強いられた長旅の体験を描いたのが、1994年に野間文芸賞を受賞した同作である。

 函館を出た押送列車は数日を経て、浦頭港に近い南風崎(はえのさき)駅に到着する。1947年7月末のことだ。李さんは、まだ12歳の少年だった。

 「南風崎に到着したとき、すでに陽は傾いていました。駅舎の中の青白い電灯の明かりを覚えています。外からはカエルの鳴き声が聞こえました」

 李さんは私の取材にそう答えた。

 「函館から同行した警察官に誘導されながら、およそ1キロ先の針尾の収容所まで歩いて向かったのです」

 針尾の収容所──正確には厚生省佐世保引揚援護局という。地元では針尾援護局の名称で知られていた。もともとは旧満州(中国東北部)などに居住していた日本人が、終戦時に日本へ引き揚げた際、一時的に収容される施設であった。

 現在、南風崎駅には次のような文言が記された案内板が掲げられている。

 戦後、敗戦によって中国や南方の島々などから多くの引揚者が、苦労を重ねながら、やっとの思いで佐世保の港に着きました。針尾の浦頭で検疫を受け、針尾援護局に収容され、そこで長い旅の疲れをいやした後、この駅から故郷に帰る汽車に乗り込みました。

 敗戦時、日本国外には軍人と民間人合わせて約630万人の日本人がいた。そのうち139万人が、引揚船で浦頭港(佐世保市)に到着し、「針尾の収容所」で休息したのち、最寄り駅の南風崎からそれぞれの故郷に向かった。当時は南風崎を始発とする東京行きの列車も運行されていた。少なくない日本人にとって、南風崎は引揚の記憶のなかに刻印されている。過酷な引揚体験を有した人であればなおさら、そこは希望の始発駅として位置づけられたことであろう。

 だが同駅は、案内板に記されてはいない、もうひとつの物語を抱えている。

 日本人引揚者を故郷に送り出した駅は、同時に日本国内から朝鮮人を放り出す場所でもあった。様々な事情を抱え、敗戦後に日本へ渡り、密航者とされ、強制送還の処分を受けた朝鮮人は、日本人と逆のコースをたどる。各地から押送された朝鮮人は、南風崎駅から援護局に向かい、一度同所に収容されたのち、浦頭港から釜山行きの船に乗せられるのだ。朝鮮人とっての南風崎は、日本における鉄路の終着駅だった。そして、日本人にとって「長い旅の疲れをいやす」ための援護局は、朝鮮人にとっては強制送還を前にした船待ちの収容所として機能した。

 つまり針尾の援護局は、強制送還の拠点だった。現在の入管収容施設の原点なのである。

南風野崎駅のホーム奥に見えるのはハウステンボス

 私は『百年の旅人たち』を再読し、さらに李さんから話を聞いたのちに、同地を訪ねた。

 かつては援護局の最寄り駅として賑わった南風崎は、現在、佐世保市と長崎市を結ぶJR大村線の無人駅である。空き箱を地面に伏せたような、そっけない駅舎だった。構内はがらんとしている。陽が垂直に照り付ける時間帯なのに、駅前にも人の気配はなかった。同駅に停まる列車は、上下線とも1時間に1本程度。付近に住む人は「早朝と夕方に高校生の姿をみかけるくらい」と話す。ホームに列車がなければ、風景は微動だにしない。

 小説の描写を思い出しながら、私も南風崎駅から歩いて、援護局のあった針尾を目指した。駅の周辺は、おそらく当時とそれほどの変化はないはずだ。家々は新しくなり、道路が整備されたとしても、心細くなるような農村の風景は変わらない。だが、針尾へ渡る橋の手前で突然、景色はリアリティを失った。私の視界に飛び込んできたのは、なんとオランダの街並みである。

 そう、援護局のあった場所、つまり強制送還の拠点だった針尾の一角は、いまや日本最大級のテーマパーク、花と光の感動リゾートハウステンボスに飲み込まれていたのだった。

 頭の中で李さんの言葉がよみがえった。

 「私たちは兵舎を転用した収容所に入れられました。周囲は金網のフェンスで囲まれていて、敷地の真ん中には大きな運動場がありました。この近くに住んでいる朝鮮人の子どもが敷地内に忍び込み、同じ朝鮮人の大人たちにどぶろくを売りつけていたことを思い出します」

 ハリボテのようなヨーロッパを凝視しながら、私は想像するしかなかった。どの角度から眺めても往時の面影を見つけることはできないのだから。

 戦時中までこの場所は旧軍の基地だった。終戦直後、引揚者受け入れ施設として、厚生省佐世保引揚援護局が置かれた。同じ敷地内に強制送還が決まった朝鮮人の収容所が併設されたのは1946年である。

 敗戦時、国内にはおよそ200万人の朝鮮人が居住していた。当初は多数の朝鮮人が故郷へと戻ったが、朝鮮半島情勢の不安定に伴い、「密航」という形で日本へ戻る者たちも相次いだ。植民地政策により「日本人」であることを押し付けられた朝鮮人からすれば、生きていくための非常手段である。無理からぬことだった。だが、こうした人々を日本は「不法入国者」として位置づけ、取締りの対象とした。捕まった朝鮮人は援護局の一角に設けられた収容所に押し込まれ、順番に送り返されたのである。

 李さん一家のように、外地で敗戦を迎え、逃げ出した先の日本で「不法入国」と断定されるケースも少なくなかった。ちなみに李さんたちはGHQの担当者と直接交渉し、送還寸前で日本に残留することを許され、その後、「在日」としての人生を歩むことになる。

 当時、最終的な権限はGHQにあり、しかも上層部はまだニューディーラーのリベラル派が占めていたことも幸いしたのだろう。

 「収容所にいるときはずっと、逃げたいと思っていました。子どもでしたからね、どこへ逃げるべきかなんて考えていなかった。ただ金網に囲まれた生活から自由になりたかった。わずか二週間の収容所生活でしたが、私が夢見ていたのは、どぶろくを売りに来ていた少年と一緒に、金網の外に飛び出ることです。彼と二人でどこか遠くに行きたかった」

 子ども時代の李さんが描いた夢は、私がこれまで接してきた入管収容施設の被収容者の言葉と重なる。

 「ここから出たい」「自由になりたい」。

 外国人であること、在留資格がないこと。それだけの理由で拘束され、人権が損なわれ、自由を奪われる。本質的な意味において、日本の外国人政策は一貫して変わっていない。

 ハウステンボスから少しばかり離れた高台に、引揚者の記録を集めた浦頭引揚記念資料館が建っていた。命からがら外地から逃げ延びた人々の苦労を伝える歴史遺産としての役割は重要だ。だが、ここには浦頭港から放逐された朝鮮人の記録は一切ない。係員に訊ねても怪訝な表情が返ってくるばかりだった。

 針尾の援護局は戻った人と出ていく人が交差する場所だった。であるのに、追い出された者たちは、まるでいなかったかのように扱われているのだ。

 これもまた、日本社会の体温である。      

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