「ノンフィクションの筆圧」安田浩一ウェブマガジン

佐渡金山は世界遺産にふさわしいのか(4)

■歴史の「現場」を訪ねて

 佐渡金山が開山したのは1601年だ。島内で鉱石を掘っていた3人の山師によって発見されたといわれる。

 これに注目した徳川幕府は佐渡を直轄領とし、金の採掘だけでなく小判の製造も同地でおこなった。江戸時代、こうして佐渡は幕府の財政を支え続けたのである。佐渡で培われた採掘技術は全国各地の鉱山にも伝えられた。

 1869(明治2)年には官営佐渡鉱山となり、ヨーロッパ各国から技術者を招くなどして機械化・近代化が進められる。1896(明治29)年に三菱合資会社(当時)に払い下げられ、民営化を果たし、さらに拡大発展を遂げた。

 1937(昭和12)年、日中戦争がはじまると同時に、いわゆる戦時増産体制の号令がかかる。朝鮮人労働者が急増したのはこの時期だ。

 朝鮮人の動員は当初「募集」という形式でおこなわれ、2年から3年の労働期間が定められていた。だが日米開戦以降、佐渡鉱業所は期限満了を迎えた朝鮮人労働者に対し「兎モ角全員継続就労ノ事」なる方針を出し、強制的に労働に従事させた。

 過酷な労働環境、しかも危険作業を強いられた朝鮮人労働者のなかには身体を病む者、命を落とす者も少なくなかった。逃走を図った者が官憲に捕らわれたことは、先にも触れたとおりである。

 これら朝鮮人労働者の内実については、ネット上でも公開されている広瀬貞三氏の論文『佐渡鉱山と朝鮮人労働者』(新潟国際情報大学 情報文化学部 紀要)に詳しい。

 戦後は産金量が減少し、金山は徐々に観光資源としての役割が増していく。

 1962年に三菱金属鉱業(現在の三菱マテリアル)が、江戸初期に開発された手掘り坑道「宗太夫坑」を観光坑道に整備。70年には三菱資本による観光会社「ゴールデン佐渡」が設立された。

 その後も経営縮小を重ねながら採掘作業はおこなわれていたが、89年、資源枯渇のために操業は中止、約400年に及ぶ金山の歴史は幕を閉じた。

 現在、前述した「ゴールデン佐渡」が「史跡 佐渡金山」を運営し、金山は観光施設として活用されている。

 私たちも歴史の「現場」を訪ねた。

「史跡 佐渡金山」。入り口には世界遺産推薦を祝う横断幕が掲げられていた。

 観光用として公開されている坑道は計4ルートである。

 ところがこの日、運が悪いことに施設内で「漏電」トラブルが発生し、見学できるのは江戸時代に掘られた「宗太夫坑(そうだゆうこう)」のみだと窓口で告げられる。

 本当であれば明治官営を起点とする近現代の坑道を見学したいと考えていたのだが、復旧の見込みが立たないとのことなので、世界遺産の対象となった江戸時代の坑道跡を歩くことにした。

 手掘りによる採掘作業が忠実に再現された宗太夫坑コースは、それでも十分に興味深いものだった。案内板の解説は充実しており、リアルにつくられた労働者の人形も、かつての坑内労働をわかりやすく伝える。江戸時代の金山を理解するための貴重な「遺産」であることに間違いはない。


江戸時代の坑内労働がリアルに再現される




 暗い坑道を抜け、地上に出てあらためて感じたのは、江戸時代の坑内労働にもまた、優れた技術という美しい物語から抜け落ちた負の側面があるという、当たり前の史実である。強制労働は江戸時代にもあった。富を生み出す金山は、多くの犠牲の上で成り立っていた。「昔は大変だったね」で済ませることのできない歴史は、世界遺産にどう反映するのか。いや、どのような形で反映させるべきか。「推薦」に関わったすべての者が真剣に考えるべき課題だ。

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