「昨年のマリノスはめちゃくちゃ面白かった。研究されても上回って優勝した。正直、超うれしかったよ。(03-04年)連覇の時のマリノスと対戦したら絶対に面白い」[坂田大輔インタビュー(後編)]
[坂田大輔インタビュー(後編)]
実施日:5月6日(水・祝)
インタビュー・文:藤井 雅彦
→前回からつづく
17年間のプロサッカー生活に幕を下ろした坂田大輔は「一番良かったのはやっぱりマリノス時代だよね」と胸を張る。
2001年のトップチーム昇格から10年間をマリノスの一員として過ごし、2003年と2004年にはJリーグを連覇。ビッグネームがズラリと並ぶ中で、二十歳の新鋭もしっかりと存在感を示して。
インタビュー後編ではマリノス時代を回想しながら自身のストライカー論を明かし、さらに15年ぶりに優勝を手にした2019年のマリノスの話にも。
オールドファン・サポーター必見の内容だ。
坂田大輔とマリノスの出会いは高校1年生の冬だった。
横浜フリューゲルスのジュニアユースで3年間を過ごし、そのままユースへ。しかし1年と経たないうちに、ライバルチームとの合併話が持ち上がる。まだ右も左も分からない10代半ばのサッカー少年にとっては難しい話だ。
「当時はニュースで情報を知るばかりで、高校生の自分にとっては『親会社』とか『経営不振』とか意味の分からない単語ばかりだった。それでも最初のうちは普通にフリューゲルスユースで練習していて、時間が経つにつれて徐々にストーリーが明かされていく。つまり自分の立場で言うと『何人かの選手はマリノスの選手になります』という話。『えっ』て感じだよ(笑)。それまで一番のライバルとしてしのぎを削っていたチームのユニフォームを着るのは、最初はちょっと考えられなかった。希望者は全員マリノスに行けることになったけど、フロンターレのアカデミーに移る選手や高校サッカーに転身する選手もいた」
年が明けた1999年、通う練習グラウンドは菅田から新子安に変わった。もともとのチームメイトが20人近くいたため孤独感を味わうことはなく、学年こそ1つ下だが栗原勇蔵や榎本哲也といった将来の盟友と円陣を組むことに。
すると坂田はこう打ち明けた。
「実はね、オレは小学生の頃からマリノスが大好きだったんだ。だからできればマリノスのジュニアユースに行きたいと思っていた。でも小学校の時のチームがフリューゲルス主催の大会に出場して、そこでフリューゲルスの人に誘われて。正直言うとマリノスのほうが好きだったけど、まだ小学生の自分はコロッと気持ちがフリューゲルスに傾いた(笑)。だから結果的にマリノスの一員になれた時は、ちょっと不思議な感覚だった」
こうして横浜F・マリノスでプロサッカー選手となった坂田は、名だたる名手の群れに飛び込んでいく。ルーキーイヤーから11試合に出場して2得点、2年目は19試合に出場して1得点を挙げた。そして転機となったのは岡田武史監督が就任したプロ3年目、2003年だろう。
「とにかく楽しかった。練習でも、ウォーミングアップのポゼッションから緊張感があって、若手がミスをしたらベテランの怒号が響き渡る。だから常に高い集中力と意識を保たないといけなかったけど、そのおかげで自分をレベルアップさせることができたと思う。岡田さんは多くを語る人ではなかったけど、いつも見られている雰囲気があったし、存在感があった。20歳そこそこの自分をコンスタントに起用してくれて、それで優勝も経験できたのは自分にとっての財産。トータルして考えたらやっぱり最高の時間だった」
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