「ザ・ヨコハマ・エクスプレス」藤井雅彦責任編集:ヨコハマ・フットボール・マガジン

『天才肌』や『センス』といった言葉で形容されていた狩野健太。並の選手では理解できない感覚、見えないスペースを見つけられる能力は、まさにオンリーワンだった [狩野健太インタビュー(後編)]

トリコロールを纏った男たち
狩野健太インタビュー(後編)

インタビュー・文:藤井 雅彦

 

 

前編からつづく 

 セカンドキャリアとしてサッカーの個人指導をスタートさせた狩野健太の原点は、どこにあったのだろう。

 マリノスに在籍した8年間、彼は何を考え、どんな思いで取り組んでいたのか。内に秘めた闘志は、なぜ外から見えにくかったのか。

 現役を退いた今、思いを言語化する狩野の姿は必見だ。

 

 

静岡学園時代から将来を嘱望されていた狩野健太の下には、多くのJクラブからオファーが届いた。

浦和レッズ、FC東京、柏レイソル、ヴィッセル神戸、ジュビロ磐田、清水エスパルス、そして横浜F・マリノス。片手の指では数えきれない数のクラブが狩野にラブコールを送り、すべてのチームの練習に参加しきれないほどの人気を誇った。

最終的に選んだのは、一度も練習参加していないマリノスだった。加入したのは2005年。そう、20032004年の連覇直後である。

「当時のマリノスはすごく強かった。レベルの高い環境に身を置いて成長したいと思って加入を決めました。代表クラスの錚々たる顔ぶれに混ざってサッカーができるのはとても楽しかったです」

 松田直樹や中澤佑二、奥大介や久保竜彦などなど。代表クラスの選手の名前を挙げたらキリがない。毎日の練習からレベルが高いことは明白だ。

 

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狩野自身、ルーキーイヤーはわずか1試合に途中出場するのがやっと。それでも同期加入の田中裕介(現・ファジアーノ岡山)が「当時から(狩野)健太は技術もオーラも、あと周りからの扱いも自分含めて他の同期選手とは違った」と語ったように、早くから潜在能力の高さを垣間見せていたようだ。

プロ3年目の2007年からは背番号14を背負うことに。奥大介の背番号を引き継ぎ、クラブとファン・サポーターからの期待は高まるばかり。しかし、なかなか突き抜けきれないもどかしさは、他ならぬ本人が一番感じていた。

 

 

 

そして転機となる2008年を迎える。

このシーズン、狩野は度重なる負傷で前半戦を棒に振った。飛躍を期待されながらも、気がつけばプロ4年目。後輩の選手たちも少しずつ試合出場の機会を増やそうとしていた。その矢先の長期離脱が心境を変化させた。

「そろそろ結果がほしいと思っていたシーズンでした。前半戦まったくチームの力になれなかったのは悔しかったけど、だからこそ後半戦は自分の力を示したかった。残留争いに苦しむチームを助けて、自分自身も結果を残す必要がありました。『これでダメならしょうがない』というくらいの気持ちで吹っ切れてプレーしたら、ようやく自分がやりたいことを表現できたんです」

 チームは狩野を中心に回っていく。攻撃の中心として輝き、開花した才能がオリジナル10のマリノスを残留へ導いた。

するとシーズン終了後、海外クラブからオファーが舞い込んだ。

 

 

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