「ザ・ヨコハマ・エクスプレス」藤井雅彦責任編集:ヨコハマ・フットボール・マガジン

「もう一度ルーキーからやり直せるとしても同じ道を通りたい。いろいろなクラブで、いろいろな指導者や選手と出会い、たくさんのサポーターと出会って、成長させてもらいました」 [田中裕介インタビュー(前編)]

 

【田中裕介インタビュー(前編)】

インタビュー・文:藤井 雅彦

 

 

2005年に横浜F・マリノスでプロキャリアをスタートさせた。

若かりし頃はサイドバックを主戦場とし、ベテランと呼ばれるようになってからはセンターバックとして経験を生かしてプレー。

しかし昨季はケガで長期離脱を余儀なくされ、ピッチ内でチームに貢献することができず悶々とした日々を過ごすことに。

年末には契約満了を告げられ、自問自答を繰り返した。

その男が新たなキャリアを踏み出した理由とは。

「サイドバックはスコアや戦況によって位置取りや判断を変えるポジション。だから状況判断が大切です」

田中裕介が、次のステージで輝こうとしている。

 

 

 

Jリーガーではなくなるけど、サッカーをやめることはイコールではありません

 

――今年2月、Jリーガーとは異なる立場でサッカーを続ける決断を発表しました。その背景や経緯を教えてください。

「とても悩みました。大きなポイントは、去年の4月に大きなケガをしたことです。サッカー人生で初めて膝を負傷して、復帰まで4ヵ月くらいかかったんです。内側側副靱帯のケガだけど、手術してもいいレベルの重傷で……。その時、ふと思ったんです。自分は1年後にサッカーができるのかな、って。もともと漠然と考えていたセカンドキャリアに対して、より真剣に向き合うようになったきっかけです」

 

――昨年末にファジアーノ岡山から契約満了を告げられ、すぐに現在の思考にたどり着いたのですか?

「最初はJリーグでプレーし続けるつもりでした。ただ、オファーがある可能性は五分五分だと思っていました。この業界に入って長いから分かるんですよ。この選手の所属先が決まっていないのに自分に話が来ることはないだろうな、とか(笑)。去年、岡山で20試合とか、せめて15試合くらい出場していたら、もっともがいていたかもしれません。でも8試合に途中出場して、トータル12分しかピッチに立っていない。だからオファーがなくても仕方ないという思いもありました」

 

――実際にオファーはなかった?

「興味を示してくれるJ2クラブはありました。でも自分以外にも候補選手がいて、自分のプライオリティはあまり高くなかったのが正直なところです。プロ2年目にデビューして以来、僕は試合に出続けたからこそ17年間プレーできました。でもケガをして試合に出ていなくて、年齢も現在35歳。選手として最も評価されるピッチ内での貢献度や稼働率が低かった。自分自身を客観視できていた部分はあると思います」

 

 

 

――プロサッカー選手は負けず嫌いの人間がほとんどだと思いますし、どんな時も自信に満ち溢れている生き物という印象です。

「若い時はそれでいいと思います。『誰にも負けねーよ』くらいの強い気持ちを持っていないとやっていけない世界ですから。でも、年齢を重ねて丸くなったというか、周りが見えるようになって、自分を客観視する能力が上がっていきました。そして自分の場合は、それにプラスしてほかのことにも興味がありました」

 

――カテゴリーをJ3などに下げるという選択肢は?

「条件面や環境といったところの問題は大きいです。これまでたくさんの時間をトレーニングやケアに割いてきました。それをやってきた理由は、自分がどこまでやりたいかというテーマの答えとなる努力です。自分の中では、プロとして胸を張れるお金をもらって、お客さんの前のプレーすることが重要と考えていて、そのためにもカテゴリーを重要視しました」

 

――そして決断に至ったわけですね。

「いわゆるJリーガーではなくなりました。もちろん何度も自問自答を繰り返しました。後悔がないようにシミュレーションもしました。いろいろな人と会って話もしました。追い込まれたら人間は真剣に考えます。ひとつのデッドラインが迫っていて、決断しなければいけないタイミングだったんです」

 

――SHIBUYA CITY FCは東京都1部リーグ所属のチームです。

「1月になってもJクラブからオファーがなかったけど焦ることはありませんでした。そろそろポジティブな進路探しに気持ちを切り替えていました。少ない選択肢の中からネガティブに決めたのではなく、自分がポジティブになれる形で決めました。Jリーガーではなくなるけど、それとサッカーをやめることはイコールではありません」

 


 

午前中にサッカーをやって午後から出社。自分が何に対して、どれだけの熱量を注ぐか

 

――あらためてSHIBUYA CITY FCへの加入を決めた経緯を聞かせてください。

「年末年始にいろいろ調べている中で、サッカーを続けながら仕事をするという選択肢があることを知りました。東京都に籍を置いている複数のクラブの練習に参加して、代表の方と話をしました。自分から連絡をしたクラブがあれば、誘われたケースもあります。所属先を決めるにあたっては環境面も重要。例えば、練習が主に夜のクラブもあるんです。昼間に仕事をして、そこから夜にサッカーをやる体力が残っているのかも考えました。同じ東京でも場所もいろいろですし」

 

提供 : SHIBUYA CITY FC

 

――ちなみに『東京都』にこだわった理由があるのですか?

「純粋に生まれた土地に帰ってきたいという想いがありました。コロナ禍になった最近2年は両親にも仲間にもなかなか会えていません。それができる環境や場所というのは大きなポイントだったかもしれません」

 

――では現在の生活リズムは?

「午前中にサッカーをやって、昼からオフィスに出社します。会社ではスポンサー営業や広報活動をしています。フルタイムで属している社員は4人しかいなかったので、自分が5人目です。まだ人数が少ないこともあって、すべての情報がSlack(チャットツール)で共有されます。今後の展開やお金のことも、すべてです。クラブの成り立ちを肌で感じ取れるのはとても刺激的です」

 

――チームの印象やサッカーのレベルはいかがですか?

「元Jリーガーが約10人いて、彼らには経験と技術があり、それ以外の若い選手には勢いがあります。ここから最短4年でJリーグに仲間入りできる。その時まで自分がプレーヤーを続けているか分からないけど、みんながひたむきに頑張っているからこそ刺激をもらえる環境です。それに戸田和幸さん(テクニカルディレクター)にサッカーを教えてもらえるとは想像していませんでした。吸収できることはたくさんありますし、すべては自分次第です」

 


 

――下世話な質問ですみません。気になるお金事情を聞かせてください。

「サッカーと仕事で分かれていますが、これまでのキャリアを評価してもらったこともあって選手としていただいている金額のほうが多いです。Jクラブとの交渉はエージェントに任せていましたが、このカテゴリーのクラブとの交渉は自分がやるという話になっていました。だから自分が交渉の席に座って、ネゴシエーションもしました。とても良い経験になったと思います」

 

――最初の給料を受け取るのは3月?

「そうですね。2月はJリーグの退団一時金という制度に助けられました。いわゆる退職金です。Jリーグと選手会の両方からもらえる仕組みで、申請しなければ受け取ることができないシステムです。世の中的にはそういったことはあまり知られていないと思うので、この場で感謝の気持ちを伝えたいです」

 

 

 

――清々しい表情ですが、Jリーグへの未練は?

「もう少しレベルの高いチームでプレーする選択肢はあったのかもしれません。でも僕は17年間、本当に素晴らしいクラブばかりでプレーさせてもらいましたし、ある意味でやり切ったという感覚もあります。あとはサッカーを続けていく熱量の部分もしっかり考えなければいけない。練習が終わってメンテナンスしていないわけではないですが、その時間は明らかに減っています。それは午後になったら会社に出勤して、やるべき仕事があるからです。自分は何に対して、どれだけの熱量を注ぐか、という話だと思います」

 

――充実していることが表情から見て取れます。

「もともとサッカークラブに興味がありました。それはグラウンドでプレーする以外の部分で、だからこそ営業や広報といったスキルを身につけたい。これまで自分がサッカーを続けてこられたのは、いろいろな人の支えがあったからです。具体的には会社や地域の方々の支えがあって、だからクラブハウスやグラウンドで充実した時間を過ごせたわけです。でも今はグラウンドがありません。サッカーをやるためにはグラウンドを探すところから始まります。引退して、そのまま指導者になっていたら、今の場所を知らないままだったかもしれません。自分は、現実というか内情を知りたかった。その動機は今までへの恩返しかもしれません。それをSHIBUYA CITY FCならゼロベースで知ることができます。これ以上大きな規模感になってしまうと、誰かが作った土台の上になってしまうと思ったんです」

 

 

自分が思い描く未来があって、その時に何をすべきか、どうやって準備すべきかをスムーズに実行できる自信がある

 

――新生活における野望があれば聞かせてください。

「サッカーと会社の業務と、それから個人としての活動もやっていくつもりです。プロサッカー選手として生きてきた自分が一般社会でどんな生活をして、何を身につけたのかを発信していきたい。それがJリーガーのセカンドキャリアにとっての指標になればいいと思いますし、今年の自分の大きなテーマです」

 

 

――その方法は模索中?

「noteなのか、YouTubeなのか、SNSにはいろいろな手段があると思っています。SHIBUYA CITY FCもそれを後押ししてくれていて、田中裕介をジャンプアップさせるためにサポートしてくれています。社会に人材を輩出することもクラブの役割と考えていて、そのロールモデルのひとつとして活躍の場を広げていくのが自分の役割になります」

 

――昨今、Jリーガーのセカンドキャリアに注目が集まっていると感じます。

「セカンドキャリアと一口に言っても、Jリーガーによってさまざまだと思います。例えば、佑二さん(中澤佑二)や内田篤人くんのような日本代表として活躍してテレビに登場している人もいれば、勇蔵くん(栗原勇蔵)のようなワンクラブマンで引退後も関わる人もいます。地方クラブで長くプレーして、レジェンドになる選手もいますし、あとは自分のようなタイプもいると思います。それぞれがセカンドキャリアで輝けるのが理想ですし、Jリーグの価値を高めることにもつながると考えています」

 

――決断力が素晴らしいと感じます。

「もともと決断力があるタイプではありません(笑)。でも自分が思い描く未来があって、その時に何をすべきか、どうやって準備すべきかをスムーズに実行できる自信はあります。決断力というよりも実行力に長けているのかもしれませんね。船に例えると、航路さえ決めればそのまま全速前進できる。プロになってすぐのマリノス時代に、ゆくゆくは海外移籍したいという願望を持っていました。そのために練習が終わってから午後の時間を使って横浜駅前の英会話スクールに通いました。本当は20代半ばくらいに欧州2部とかでもいいから行きたかったけど、結果としてフロンターレの次にオーストラリアでプレーできました」

 

――なるほど、決断力ではなく行動力。移籍するタイミングも行動力を生かして進んだわけですね?

「僕は自分自身のキャリアについて後悔したことは一度もありません。移籍を4回経験しましたけど、もう一度ルーキーからやり直せるとしても同じ道を通りたい。いろいろなクラブで、いろいろな指導者や選手と出会い、たくさんのサポーターと出会って、成長させてもらいました。最初のきっかけはマリノスからフロンターレに移籍したタイミングで、サッカー人生において大きな分岐点でした」

 

 

 

(後編へつづく)

 


 

 

山瀬功治 著 / 藤井雅彦 構成
ゴールへの道を自分自身で切り拓くものだ
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