苦しい時期があっても『オレはマリノスで試合に出ていたんだから大丈夫』と思えました。ある意味で自分にとって“名刺”のような存在です」[田中裕介インタビュー(後編) トリコロールを纏った男たち]
トリコロールを纏った男たち
インタビュー・文:藤井 雅彦
マリノスは入口であると同時にすごく高い壁で、乗り越えた時に得たものは大きな財産になりました。
だから自分にとって“名刺”のような存在です
SHIBUYA CITY FCの一員として新たな一歩を踏み出した田中裕介。
彼が横浜F・マリノスに加入したのは、2003-2004年の連覇直後の2005年だった。
リーグ3連覇を目指すチームの層は分厚く、リーグ戦だけでなくカップ戦でもベンチにすら入れない1年間を過ごす。
そんな時、偉大な先輩たちから厳しくも温かい叱咤激励の言葉をかけられる。
「マリノスの一員として過ごした6年間でプロサッカー選手としての基準を教えてもらいました」
新たなスタートを切った今だからこそ、原点ともいえる時期があらためて宝物のように輝く。
マツさんがいなければ今の自分はいません
――桐光学園を卒業してプロ入りしたのが2005年。当時は連覇直後のシーズンで、錚々たる顔ぶれでした。
「すごい選手ばかりでした。強烈な個性を持つ先輩方がいて、毎日の練習から得られるものがとても多かったです。特にDFに素晴らしい選手が多くて、たくさんのことを吸収させてもらいました。ただ、いま振り返ると僕自身はまだまだ高校生の延長線上の気分でしかなかった気がします」
――プロとしての自覚が足りなかったという意味ですか?
「それはあったと思います。同じプロという土俵に立っているのに『試合に出られなくても仕方ない』という甘い意識があったかもしれません。当時は上下関係に厳しい時代でしたから、先輩に認めてもらえないと話すことすらできません。もちろんイジられることもありません。サッカーだけでなく、会話もプライベートも勝ち取らないといけなかった」
――高校まで先頭を走っていた選手でも、プロ集団でも一番後ろの列に並ぶことになる。
「そうですね。その時、自分は同じ境遇にある若手や試合に出られない選手と群れてしまったんです。佑二さん(中澤佑二)に『そんなところでつるんでいても成長しないぞ』と言われたことを鮮明に覚えています。あとは『早く寮を出ろ』も印象に残っている言葉です。」
――どのように解釈したのですか?
「すぐには意味を理解できませんでした。でもキャリアを重ねてベテランという立ち位置も経験して、理解できました。傷を舐め合うことはその場では気持ちいいし、ラクです。でも抜本的な解決になっていない。どれだけ傷を舐め合っていても試合には出られない。練習が終わってゲームセンターに行くのではなく、地道に筋トレしなければダメ。そして『自分の生活リズムを作れ』と遠回しに伝えてくれていたのだと思います。例えば、佑二さんは練習開始の約2時間前にクラブハウスに来て入念に準備していました。それ以外でも居残り練習や筋トレ、体のメンテナンスなど、やろうと思ったらやれることはたくさんあります」
――先輩に助言をもらったことで徐々に意識が変わっていった?
「プロ2年目からは少しずつ自発的に取り組む意識に変わっていたと思います。だから寮を出たのも同期の中で自分が一番早かった。マツさん(故・松田直樹)に『背伸びしてもいいから良いところに住め』と言われて。住むマンションも乗る車も、あとは洋服でも『ケチケチすんな』とよく言われました。いまでもその癖で少し背伸びした買い物をしてしまいます(笑)」
――最も影響を受けた選手をひとり挙げるとすれば?
「ひとりと言われたら、それは松田直樹さんしかいないでしょう。
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