「ザ・ヨコハマ・エクスプレス」藤井雅彦責任編集:ヨコハマ・フットボール・マガジン

「もっと早く発表するべきだったろうけど、ホーム最終戦で湿っぽくなるのが嫌だったので」 -小椋祥平の退団について(藤井雅彦) -2,003文字- 

周知のとおり、マリノスは小椋祥平と来季の契約を結ばないことを発表した。本来であればホーム最終戦前に公表し、サポーターに別れを告げるのだろうが、シャイな性格な彼はそれを拒否した。その結果、最終戦翌日の11月30日に発表する運びとなったのである。本人の意向を尊重したクラブの姿勢は否定されるものではない。サポーターにとっては受け入れなければいけない事実だ。

2008年に水戸ホーリーホックから移籍加入した小椋は、今年まで7年間トリコロールの一員としてプレーした。移籍初年度は序盤こそ出場機会に恵まれなかったが、終盤は当時の監督である木村浩吉に3バックの一角を任され、持ち前のボール奪取能力で貢献。ともに3バックを組んだ栗原勇蔵が「今日の一番はオグ(小椋)でしょ」と話す試合も少なくなかった。2009年からは本来のポジションであるボランチでの出場も増え、木村和司体制になった2010年と2011年は不動のレギュラーとして君臨。誰もが認めるレギュラー選手となった。

苦い意味で転機になったのが2012年の始動日直後に患った肺気胸である。これによってシーズン序盤を棒に振り、復帰直後に右肩脱臼、さらには右ひざ内側側副じん帯損傷というアクシデントに見舞われる。結局、2012年はわずか4試合の出場にとどまり、シーズン後半に富澤清太郎と中町公祐のコンビが誕生する。そのために翌2013年も定位置を失ったままの日々を過ごしていた。

そして2014年。中断期間明けは小椋抜きの布陣など考えられなかった。離脱者が相次ぐ中で抜群の存在感を発揮し、気がつけばファーストボランチの座を取り戻していた。悔やまれるのはこのタイミングで再び負傷してしまったこと。9月27日のヴァンフォーレ甲府戦で右ひざを痛め、現在も右ひざには分厚いテーピングが巻かれている。

 

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