川本梅花 フットボールタクティクス

【コラム】寺山修司が語る釜本邦茂論「足の杉山」対「頭の釜本」【無料記事】『ぼくが戦争に行くとき−反時代的な即興論文−』寺山修司(中央文庫)

【コラム】『ぼくが戦争に行くとき−反時代的な即興論文−』寺山修司(中央文庫)

寺山修司が語る釜本邦茂論 「足の杉山」対「頭の釜本」

先日、本屋に行った時、寺山修司の名前で文庫本が出版されているのを見つけて、手にとって目次を開いた。もちろん、その文庫本は、寺山の過去の文章を集めた作品集である。大学での講演や映画論の項目の後に、「同時代の戦士たち」のタイトルの中に「釜本邦茂論」と記されていた。寺山がサッカー選手のことを語っていたのをはじめて知る。早速そのページを開いて読んでみる。「これはじっくり読んでみたい」。ショートエッセイの冒頭の書き出しに触れて、店のカウンターに僕は向かった。

僕は、寺山修司(1935-1983)の演劇を実際に観たこともなければ、釜本邦茂(1944-)のプレーも実際に見たことがない。DVDとして残された映像や書物の中の寺山しか知らないし、YouTubeの中でメキシコ五輪で活躍する釜本のプレーしか認識したことがない。もちろん、同じ青森県出身の寺山の作品はいくつも見ている。職業としてのサッカーライターをしているので、釜本の経歴は知っているし、ガンバ大阪の監督をしている釜本の姿ははっきりと覚えている。

「釜本邦茂論」の冒頭は、寺山らしい出だしではじまる。

サッカーのボールと、人間の頭の大きさとはよく似ているはずである。サッカーは、その起源においてはボールではなくて、人間の頭蓋骨を蹴って遊んだのだといわれている。それは、戦争で痛めつけられ、重税に苦しめられた市民たちの、怒りをぶちまけるためのスポーツとして、廃虚から廃虚へと、死んだ兵士の頭蓋骨を蹴り運んでいった。しかし、頭蓋骨というヤツは、あまり持ちのいいものではないので、しだいに代用品のボールを使用するようになったのが、今日の皮ボールの起源というわけだ。(p.182)

寺山はサッカーを、〈怒れる若者たちの抵抗の道具〉と捉えているかのように、サッカーについて語りはじめる。寺山は、作家として「嘘をつく名人」なので、どこまで本気にサッカーを〈抵抗の道具〉と考えていたのは怪しい。これも本当かどうかわからないが、「私たちも学生時代」と断りを入れて、さも自分がサッカーボールを夢中で蹴った時代があったように記す。寺山は、サッカーボールを蹴ったことがあるのかどうかも疑わしい。遊びで蹴ったことがあるかもしれないが、文章では、サッカーボールに学校の校長の顔写真を貼って蹴っていたと話し、「時代の抵抗を表現すために、最もよく似合うスポーツだ」と述べる。

「時代の抵抗を表現すために、最もよく似合うスポーツ」であるはずのサッカーが、大学に入ったらそれが「イギリス国の紳士的スポーツ」のカテゴリーに入れられていたと告白するのである。寺山も釜本も同じ早稲田大学の卒業生なので、紳士的スポーツの中枢は「早稲田大学蹴球部」になるのである。1年生から大学のエースとして活躍する釜本を、大学の先輩である寺山は、彼がいったいどんな怒りを込めてサッカーボールを蹴っているのだろうか、と記すのである。寺山にとって、釜本のプレーに「不満がある」ことが、ほんのちょっとだけ見え隠れする。寺山の雑誌のインタビューの中の釜本の以下の発言をピックアップする。

南ベトナムの選手は、ほとんど軍人ですよ。軍隊で合宿みたいにして、サッカーをやっているらしいんですね。サッカーをやらなきゃ、前線に狩り出されて殺される。だから、どうしてサッカーに熱心になる。ベトナムの戦争は、アメリカと韓国とオーストラリアが来てやってるんだ。なんていってたな。(「週刊読売」)

寺山は、釜本のこの発言を通して彼の本質が見えるのではないかと投げかける。つまり、釜本は、サッカーをベトナムの軍人の逃避とか延命の方策と割り切って捉えている、と指摘する。ベトナムの軍人たちは、祖国を戦場にされてしまっているものの悲しみや怒りの発散だと言っていないところに、釜本のサッカーに対する考え方が現れている、と述べる。そこで釜本と対比するためにライバルの杉山隆一(1941-)を登場させ、「足の杉山」と「頭の釜本」と表現する。

寺山は、釜本のサッカーを「華麗だが豪快ではない」と話し、「ボールに怒りを込めて蹴りまくる」とのイメージはないと言い切る。それは、釜本は「ヘディング」で得点を奪っているシーンをしばし見かけるからだと記す、それに比べて杉山は、足で得点を決めるシーンを多く見かけるので、「ボールに怒りを込めて蹴りまくる」イメージを彼に重ねている。

ショートコラムの最後で、寺山はこのように文章を結ぶ。

エースの一人である「足の杉山」に、「頭の釜本」が挑戦するわけだが、どちらに軍配が上がるのか? ひとつ、高みの見物といくことにしよう。(p.189)

クラブでの記録を見れば、釜本は251試合で202得点、杉山は115試合で41得点となる。記録だけを見れば、釜本に軍配が上がるのだが、実際のところは僕にはわからない。実際のところとは、彼らと同時代に時間を送っていないので、内実がわからないという意味だ。おそらく、実際のところは、大先輩のサッカーライターの賀川浩ならば語れるのだろうと、ふと、思った。

また、現代のサッカーシーンで「ボールに怒りを込めて蹴りまくる」ようなイメージを持てるサッカー選手はいるのかどうか、と考えた時、誰の名前も浮かんでこなかった。「ボールに怒りを込めて蹴りまくる」ストライカーは、これから現れることがあるのかどうか、わからないとも感じた。

川本梅花

 

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