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「スーパーサッカー」は守り抜いた……伝説のテレビマンが明かす中継の苦悩と舞台裏【サッカー、ときどきごはん】

 

TBSの元プロデューサー・名鏡康夫氏は1993年のJリーグ開幕から続く番組「スーパーサッカー」やワールドカップ中継などに長く携わってきた伝説のTVマンだ。
これまで番組は何度か存続の危機に立たされ、ワールドカップアジア予選の中継では予想もしなかったハプニングに見舞われた。
日本サッカーの興隆をTVの現場で見てきた名鏡が振り返る歴史は日本サッカーの裏面史でもある。
そして現在、テレビ局とサッカー番組の現状について何を思うのか。じっくり話を聞いた。

 

▼「スーパーサッカー」で防波堤になってくれている人物とは?

僕はTBSに途中入社したんですよ。最初はフジテレビ系のテレビ番組制作会社でした。

大学ではサッカー好きでプレーもしてたんですけど、バンド活動に熱中したそういう学生生活を送ってました。就職の時期になって、自分はちゃんとしたサラリーマンに向かないと思ったんで、元々大好きだったテレビの世界を目指したんですよ。でもコネもないし成績もそんなによくなかったから、プロダクションに強引に潜り込んだというのが始まりですね。

最初はアシスタント・ディレクターから一歩ずつですよ。コーヒー買ってこい、タバコどこだから始まって。仕方がないですよね。テレビはなんぞやということも知らないから。寝る間もないくらい、食事する暇もないくらいこき使われました(笑)。

そして努力が認められてディレクターに昇格して29歳のときにTBSに中途採用されたのですけど、その後スポーツ局に異動するという転機があったんです。最初に「JNNスポーツチャンネル」というスポーツニュース番組をやって、定岡正二さんとか亡くなった小林繁さんと番組を作ってたんです。年齢的には30歳を超えたので、デスクみたいな立場でした。

「NEWS23」では立ち上げの時からスポーツコーナーを担当しました。当然野球から他のスポーツまで取り上げて取材にも行ってたんですけど、当時はJリーグなんかなかったですからね。サッカーはマイナーで、なかなか取り上げにくかったんです。

けれど、デスクになるといろいろ自分で差配できるようになって、雨が降ったときなんかは「おい、ちょっと日本リーグに行こうぜ」って言って、西が丘なんかで日本サッカーリーグを取材して、それを放送したりしてました。

そのころに忘れもしない、ソウル五輪のサッカー予選最終戦があったんです。1987年10月4日に行われたアウェイの戦いで日本は中国に1-0と勝って、10月26日の最終戦では引き分け以上で五輪出場という試合だったんです。

それで「今、サッカーが熱い」という特集をやったんですよ。亡くなった岡野俊一郎さんをスタジオに呼んで。日本がオリンピックに近いぞ、これからまたメキシコ五輪の後のようにすごくなるぞ、日本サッカーリーグにもブラジル代表のキャプテンだったオスカーも来てプレーしてるぞ、って。でも、結局0-2で敗れて五輪には出られなくて。

ただ、そういうのを一生懸命やってたら、局の中で「アイツはサッカー好きだ」って言われるようになったんです。当時、TBSの中ではやっぱり野球がメジャーだったんで、サッカーの知識を持っている人が少なかったんですよ。それで、ときどきサッカーに関して「これ知ってるか?」って聞かれて答えていたら「サッカーに詳しい」って陰で認められてた(笑)。いわゆるサッカーオタクのはしりだったかもしれません。

スポーツの中ではやっぱり野球が一番でしたね。エリートコースといえば野球の球団担当、特に巨人担当になったり、野球中継をじっくりやってのし上がっていくというのが、よくある道だったと思います。TBSの局内だと、あとはゴルフやボクシングが伝統的に注目されてました。あとはその他という扱いで。

ところがJリーグがスタートするということになり、サッカーにも注目してもらえるようになったんですよ。そこでいくつか企画を出して番組を作りました。関東大学リーグのハイライト番組とか、Jリーグ開幕前の1992年にやったヤマザキナビスコカップのダイジェスト番組とか。それでJリーグが始まるから番組をやろう、となったところで僕がプロデューサーからチーフディレクターをやってくれないかと指名されたんです。

それで1993年に「スーパーサッカー」という番組を立ち上げたんです。サッカー専門の番組なんだけど、サッカーの詳しい人にだけを対象にするんじゃなくて、まだサッカーに興味のない人にも見てもらえるようにと思いました。ただ、バラエティチックになりつつ、筋を外さないようにって。そういう考えでずっとやってたんです。

もちろんサッカーの人気も上がったり下がったりがあったんで、そういうのも全部経験しました。ただスーパーサッカーは、サッカー自体の人気が落ち込んだときも企画は面白いと思ってもらえたようで視聴率はよくて。だからなかなか番組が終わらなかったんです。今は全国ネットから関東ローカルになっちゃったんですけど、まだ続いてるのはうれしいですよ。

辛いことはあまり感じなかったなぁ。もう番組が終わってたら辛かったんでしょうけどね。自分の誇りの1つは自分が辞めるまでなんとか続いて、今も続いてるということなんです。途中、番組が終わりそうになったときはあったんですけど、そこは何となく動いて継続できたもんで(笑)。

テレビ局って「枠の取り合い」というのがあるんですよ。スーパーサッカーの1番の危機のときは格闘技がブームで、TBSも大晦日に格闘技の番組をやって、いい視聴率を取っていたときでした。スーパーサッカーをやってる枠で格闘技をやりたいと言い出した人たちがいたんです。

そのころってサッカーがちょっと落ちた時で、何とかしたいけれどサッカー単体では苦しいという感じでした。それでスーパーサッカーにスポーツニュースを吸収して武装したんです。そのおかげで番組は継続できたんですけど、一部のサッカーファンからはすごく顰蹙(ひんしゅく)を買いました。「スーパーサッカーで他のスポーツをやるな。なんで野球のことなんかやるんだ」って。

でもね、見てもらったらサッカーがメインだったでしょう? それまでって野球のニュースがバーンと出て、サッカーはちょっとだけだったじゃないですか。それを何とかサッカーが中心の番組にしたんですよ。野球の人たちからは文句が出てきたりもしたんですけどね。あとは全国ネットから関東だけで放送されるようになった時もちょっとあったんですけど、どれも何とか乗りきったんで続けられたんです。

番組の枠を移動したこともありましたね。月曜日にしたり金曜日にしたり、それで日曜日に落ち着きましたけど。ともかく、どうにかしてスーパーサッカーを続けたいという思いがみんなにあって。

特に加藤浩次はそういうのを意気に感じてくれてました。彼も今、すごく強いタレントになったじゃないですか。だから彼がいろいろ防波堤になってくれてるというのもありますね。僕が辞めた後に番組はどうなるだろうと心配もしたんですけれども、みんな頑張ってくれてるし。僕はすごくうれしいですよ。

サッカーの担当になって、結局定年まで30年間やり通しました。こういう組織の中では当然いろんな部署を回されますし、スポーツでは稀にずっと同じ担当というのがいるんですけど、それでも他の競技もやるっていう感じなんです。そんな中で最後までサッカー専門だったのは僕だけでしたね。

だから本当にJリーグの開幕と同時に僕の人生も変わっちゃったなって。サッカーは好きでしたけどこうなるなんて全然思ってもみませんでした。

 

▼ワールドカップ予選のインド戦で視聴率が伸びた意外な原因

長くやって来たんで、いろんなトラブルも経験しました。

 

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