0‐7の処方箋(J論)

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増嶋竜也が考える「選手の終わらせ方」……Jリーガーにならなきゃよかったと思ってほしくない【サッカーときどき、ごはん】

まだまだプレーできる状態を保ちながらも、さまざまな葛藤の末に引退を決意した増嶋竜也。さぞ失意のどん底にあるのかと思いきや、その目はまばゆいばかりに輝いていた。現役時代から居場所を求め続けた彼は、いまどんな場所を見つけようとしているのか。

 

■心も体も病んだ状態でやめてほしくない……引退決断までの葛藤から生まれたプロジェクト

僕は今、クラウドファンディングを使って「#Reback(リバック)」というプロジェクトをやってます。チームとの契約が終わったけれどまだ夢を諦めてない選手たちに、トレーニングできる環境を提供して、もう一度サッカー選手として夢を叶えてもらうのをサポートしたいと思い、このプロジェクトをスタートしました。

このプロジェクトをやろうと思ったのにはきっかけがありまして。僕は去年(2020年)引退したんですけど、正直「まだ現役を続けたい」っていう思いもあったんです。でも、新型コロナウイルスの影響もあり、自分の年齢もあり、プレーしたくてもその場所がないんですよ。

代理人を通じていろいろチームを探していく中で、自分が思ってる以上に厳しいという現状を突きつけられました。関東以外のチームとか地域リーグのチームという選択肢はあったと思います。けれど、そこで自分の選手生活の終わり方も考えたんです。

現役生活を続けている時に、最後は地元で選手生活を終えたいという夢があったんですよ。ただ、そういうのは本当にタイミングが合わないとできないと思ってました。プレーしたい、でも地元で辞めたいっていう葛藤があって、ゆっくり総合的に考えたとき、ここからどこか別のところに行ってプレーするより、地元で引退しなかったことのほうが後悔すると思ったんです。やっぱり地元で引退したいという思いが強くなって、それで引退しました。

そういうのもあって引退したわけですが、周りを見ると、新型コロナウイルスのせいだけじゃないにしろ、チームの経営が難しくなり、いろいろ支出を削減しなきゃいけないチームがたくさんあったんです。その影響を受けている選手がたくさんいて、僕もいろいろな選手から電話をもらいました。

契約満了になって、次のチームがなくて、練習場がないから公園で練習してるとか、中学校や高校に練習参加させてもらってるとか。東北のほうの選手は雪もあってなおさら練習できる場所がなくて、ジムに行ってひたすらランニングマシーンで走るぐらいしかできませんとか。

そういう相談を聞いて、僕がどうにかできないかって考えてたんです。それで「今、チームのない選手がどこかに入るタイミングっていつだろう?」と考えたときに、自分の経験で思いついたのは「キャンプが終わったあとじゃないか」ってことだったんです。

どのチームにもキャンプでケガ人が出たり、実際に試合をやって戦力がもうちょっと必要だというのが明らかになるんですよ。そこが多分、もうちょっと補強しようっていうタイミングだと思うんです。今年は特にチームの補強する期間がすごく短かったんですよ。その間に「もう補強しません」ってバサッと切られる選手がたくさん出たという状態で今年がスタートしちゃったんで。

だからいろんなチームが今年最初の選手登録期限になっている4月2日までに最後の補強をするんだろうと思って、「そこが狙い目だから、そのタイミングのラストチャンスに賭けようよ」と考えたんです。

それでチームを探している選手が練習できる環境を作って、キャンプが終わってからリーグ戦序盤までのタイミングに、チームから「練習参加してください」「ちょっと興味があります」って言ってもらえる最高の状態にする、そういう場をみんなで作りましょうっていう企画を立てました。

ちょっと見切り発車的な部分があるんですけど、誰もそんな選手に手を差し伸べる人もいなかったし、誰もやったことがないんだったら、じゃあ僕がダメ元で、失敗していいわけじゃないけど、やってみようと思って。

クラウドファンディングの期限は3月7日で、目標額は600万円って設定してます。それは支援を希望する選手が20人来たときに宿泊費、食事、グラウンドの利用料金、運営料とか、トレーナーとかコーチとか、いろいろ含めたら最高で600万円かかるだろうという金額なんですよ。現在の参加人数は20人に全然及ばないですし、1月いっぱいで辞めた選手もたくさん出てきて、もっと少ない金額でも十分成り立つと今は思ってます。

チームが見つかる可能性はすごく高いわけではないんですけど、同じ空間に同じ気持ちを持った人が集まってモチベーションを高め合えば、心も切れず、体も切れずやっていけるんじゃないのかな、と。そしてもし、そこでチームが見つからなくても、最後まで努力してやりきって引退という決断も僕はいいと思うんです。

公園とかジムでもがいて、心も体も病んだ状態で引退というのはしてほしくなくて。せっかくJリーガーになれたのに、ならなきゃよかった、サッカーやらなきゃよかったと思って、サッカーから離れてほしくないなって。

だったら、みんなでやりましょう、ラストチャンスに賭けてダメだったら引退しましょうっていう、1つのきっかけにもしてもらいたくて。引退って誰もが通る道だからこそ、何かのきっかけも大事じゃないかって思ってるんです。

僕が今、辞めたばっかりだからこそ説得力もあるし、なんかこのタイミングなのかなって。僕の収入には一切ならないけど、何か意味があることだって思ってます。

 

■サッカーをやっていて本当に辛かった1つ目の挫折

僕がサッカーをやってて辛かったのは……1つ目の挫折といいますか、ターニングポイントだったのは市立船橋高校サッカー部のセレクションでしたね。

セレクションに合格すれば推薦をもらえて学校に入れるんですけど、僕はもらえなくて。だから一般入試を受けなきゃいけなくなって、受験して入ったんです。うまくポンっと学校に入れればよかったんですけど、そんな甘くないなって。親も本当に入れるのかって最後まで僕のことを疑ってましたね。

サッカー部に入ることにしても親からは「厳しいし、本当に耐えられるの? そんな甘くないよ」ってずっと言われてて。僕は実際にどれくらい厳しいのか分からなくて、ただ単に憧れだけで入ったんですよ。入って相当後悔しましたけどね(笑)。

1年生のときから3年生まで毎年全国タイトルを獲ったんですけど、本当に大変でした。心も体も結構ボロボロになりましたね。毎朝4時半の始発電車に乗って学校に行って、6時に学校に着いたら7時の朝練開始までに準備するんです。

今だったら人工芝だからそんなことしなくていいんですけど、当時は土のグラウンドでしたから石灰をカートに入れてラインを引くというのもやってました。そして全部準備を終わらせて先生や先輩が来るのを待つんです。帰りもみんなが帰った後に1年生がトンボ掛けをして帰るので遅かったですね。

練習はもう、走る、走る、走るで。朝から100メートル20本とか、30本とか走って。朝飯はあんまり食べられなかったんで、吐きそうになっても何も出るものないから胃液を吐きながらやるんです。

集合がかかって、走って集まったときに鼻息が荒かったら怒られるんですよ。「うるさい! もう1回走れ!」って。だから息を止めるんです。それがまた辛くて(笑)。

あれ以上キツいことってなかったですね。プロに入ってからは、もちろん別の意味でのキツさはありましたけど、理不尽さといいますか、もう訳のわからないことはなかったですからね。

高校時代もプロでも何メートルを何秒で走るというシャトルランという練習はありましたけど、プロは科学的に何秒で走って、何秒休んで、これを何本繰り返すと試合のときと同じような距離になるという計算があるじゃないですか。

でも高校のころはウォーミングアップもしないで急に「並べ」って言われて、ゴールラインから反対側のゴールラインまで行って帰ってくるという練習が始まるんですよ。計算どころか、何本で終わるかもわからない中で走るわけです。

「全部で10本」というのがあったら「あと3本」「あと2本」って頑張れるでしょう? それがないんですよ。もう何本走ったのかもわからないし、あと何本で終わるかもわからないし、そういう恐怖と闘いながらやってました。だから相当鍛えられましたね。本当に部活のためだけに学校に行ってました。もうあの高校時代は繰り返したくないです(笑)。

 

 

■オレのサッカー人生は終わった…失意のどん底で差し伸べられた手

次に辛かったのは、2008年にヴァンフォーレ甲府への期限付き移籍が終わってFC東京に戻ってきたときですね。僕は2004年、FC東京に入って2006年まで在籍してたんです。FC東京に入ったとき周りはすごく期待してくれてたんですけど、試合をすればするだけ自分で「絶対通用しない」って思ってました。

それでも1年目の半年間ぐらいは怖いもの知らずでしたし、「いや、まだいける」と思ったんですけど、1年目終わるぐらいからは、やればやるだけ怖くて。試合に出れば負けるし大量失点するし、「増嶋はもう無理だ」みたいな感じで言われるようになって、本当にサッカーするのキツかったですね。

それで「武者修行してきます」って2007年に甲府へ期限付き移籍したんです。FC東京では3年間でリーグ戦に25試合出てたんですけど、甲府では1年間で25試合出ました。だから僕はFC東京に帰ってこいって言われると思ってたんです。

FC東京からは「経験を積んでこい」と言われてたんで、これで呼び戻されると思ってたら「帰ってきたかったら帰ってきてもいいよ」ぐらいの感じだったんですよ。確かにFC東京のディフェンスラインには今野泰幸さん、茂庭照幸さん、加地亮さんという日本代表選手がいて、センターバックにはジャーンもいて、メンバーが揃ってましたからね。

甲府は僕を完全移籍させるためにはお金がかかりすぎて無理なようでしたし。だから「もうオレのサッカー人生は終わったかも」って思って。それでも帰るしかないのか、チームを変えるしかないのかも、と思ってメンタルをやられた状態になったんです。

そのとき、京都サンガの監督だった加藤久さんから声をかけてもらったんですよ。加藤さんはわざわざ東京まで会いに来てくれて「一緒にサッカーやろう」と言ってくださって。それで期限付移籍で京都に行くことになりました。

あの甲府を離れて京都に行くことになるまでの1カ月間は、自分はもう必要とされなくなった、クビになるんじゃないかという恐怖心が初めて湧いてきて、辛かったし、悲しかったですね。

京都は移籍して2年目に僕を完全移籍で獲得するという話をしてくれたんです。そのとき初めて、FC東京が「帰ってこい」と言ってくれました。それまで僕も結果を出してFC東京に帰りたい気持ちがあったんです。代表選手がずらりと揃ってる中でやってみたいと思ってて。でも僕は一番辛かったときに助けてくれた人を裏切れないと思ったんで、「僕は加藤さんに付いていきます」と言って京都に完全移籍したんです。

加藤さんはサイドバックもやらせてくれたんですよ。ロングスローも見出してくれて。ロングスローは高校のときから僕のスローインはちょっとボールが飛ぶな、ぐらいに思ってたんですけど、プロになってから戦術として使ってくれました。今ではロングスローをいろんなチームが使ってますけど、昔はあんまり投げる選手がいなかったんで珍しかったでしょうね。

2010年シーズンが終わって、京都がJ2に降格したのでレギュラー選手を手放すことになったとき、千葉県の選手を集めているという柏レイソルから「サイドバックも出来るのなら」という話をもらって行くことになったんです。そのとき、いろんなポジションの兼ね合いでたまたまかもしれないんですけど定位置を勝ち取って、そこで一気に世界が変わりましたね。

いろんな代理人の方に言われるんですけど、僕のパターンは結構珍しいらしいです。移籍して試合に出られなくなる選手が多い中で、移ったチームで必ず試合に出てるんで。そういう意味では、僕は移籍がすごく楽しかったですね。移籍にはいいイメージしかないです。指導者にすごく恵まれましたし、いろんな人が自分の良さを引き出してくれてましたから。

 

■そして…もう1回現役に戻りたいという気持ちがなくなった

最後の辛い時期は、やっぱり2020年の現役最後の年ですね。

自分の中ではまだ動けるっていう感覚もあるんですけど、でもチームは世代交代をしたいというか、若い選手を使いたいというのがあって。新型コロナウイルスの影響で降格がなくなって、どのチームも若手を起用して育てようということになりましたから。

それで「あれ? オレがここにいる意味があるのかな?」っていうぐらいになって。自分の置かれたのは今までにない、想像してなかった立場になって、それがとても苦しかったですね。こうやって選手は引退していくのかって思い知らされました。

18試合に出場して勝率もまあまあよかったんですけど、それでも自分はもっとできると思ってました。居場所がないというか、「引退」っていう文字がはっきりわかるようになってきて、このままチームをクビになるだろうなっていうのを感じながらやってました。

スタッフの僕に対する……なんでしょう、ちょっと気を使ってる感じとか。「これ、気遣われてるなあ」とか、やっぱり感じるわけですよ。それで「オレってここにいるべきじゃないのかな?」とか、いろんなものが見えるようになってきて。それでジェフ千葉を離れた方がいいのかなっていう思いが出てきちゃいましたね。

でもやっぱり、スタジアムで試合終わりにグラウンドを回ってると地元の友達とか自分の中学校の先生がサポーターにいたり、顔を見て「ありがとうございます」って頭を下げると「久しぶり!」って声をかけてくれる知り合いなんかがいっぱいいたんですよ。

それで「地元に帰ってきてよかったな」って毎試合思ってたんです。こうやって最後帰って来られるっていろんなタイミングが重ならないとできないことだし。そういった意味ではジェフで引退できて良かったって思ってます。

ケガで言えば、2014年の年末に両足首の「ネズミ」と呼ばれる関節遊離体を手術で取って、2015年はアウェイの開幕で先発したんですけど、第2節のホーム開幕戦の前半で前十字靱帯をケガしてしまったことがありました。

あれもあれで辛かったんですけど、子供が生まれるタイミングだったりしたんで、また違った意味でいろんな人が近くにいるとか、仲間が手術する前に送り出してくれたりとか、試合終わった後に僕のユニフォームを掲げてくれたりとか、サポーターが「帰ってきてね」って動画をくれたりとか、妻がすごい支えてくれたりとか、いろんなものを感じることができたので、すごい挫折とか嫌な思い出とかはないです。改めてみんなの温かさを感じられた時期でした。

妻もアスリートだったんで、「今、話しかけない方かけないほうがいい」とか、「今、悩んでるんだろうな」「今、元気なんだろうな」っていう、そういう僕の状態を見るのはすっごい上手でした。「今、話しかけてほしくない」って思ってるとき、話を聞いてこないんですよ。そういうところはやっぱりすごいと思います。妻は僕に対してうまくサポートしてくれましたね。

今、まだサッカー選手を続けたいと思ってる選手を支えようとしてますけど、自分にはもう1回現役に戻りたいという気持ちが一切ないです。引退してゆっくりできてるし、家族と過ごせる時間も増えたし、これまでとは違ういろんなお仕事をさせてもらうようになって、その仕事がすっごい楽しくて。今、とても充実しているので、「もう1回戻らないか?」って誘われたとしても「ごめんなさい」って言うと思います。

 

■記念日に必ず妻と食べに行くこだわりの料理屋

え? ご飯のことですか?

妻は料理が上手なんですよ。昔からご飯をよく作ってもらってます。その中で何が好きって言われると難しいですね。妻の料理を食べることは本当に好きなので。

そうですね……やっぱり和食がいいですね。歳を取れば取るだけ好きになってきました。焼肉とか中華はもちろん今でも好きですけど、でも最近は和食がいいんですよ。魚が好きだから。焼き魚のようにシンプルな料理と、具のいっぱい入った味噌汁というのが最高です。

今の時期だったらヒラメですね。煮付けにしてもおいしいし、刺身もいいし。最近は釣りが好きなので、よく海に行って自分でさばいて食べたりするんです。さばくって言っても全然上手じゃないですけどね。妻からは「夕飯に食べられる魚を釣ってくるのだったら釣りに行ってもいいよ」って言われてます(笑)。

外食では、記念日や何かお祝い事があると夫婦で行く料理屋さんがあるんです。「四季旬菜 nakano 三軒茶屋」っていうお店で、コースでその季節によっていろんなものが出てくるんです。

料理は、1品ごとにすごく手間がかかってるんですよ。こだわってるのが見てわかるんです。どの料理も全部見ても楽しいし、食べても美味しいし。そういうところもあって一番好きな料理屋さんですね。何かあると2人でご飯を食べに行ってますよ。引退してから2人でゆっくりする時間が増えましたから。

四季旬菜 nakano 三軒茶屋

 

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増嶋竜也(まつしま・たつや)
1985年4月22日、千葉県出身。千葉市立生浜中、船橋市立船橋高校を経て、2004年にFC東京に加入。その後、ヴァンフォーレ甲府、京都サンガ、柏レイソル、ベガルタ仙台でプレーし、2018年からジェフ千葉に移籍。2020年に現役引退を表明した。

 

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森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。2019年11月より有料WEBマガジン「森マガ」をスタート

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