無料記事【選手ストーリー】FC東京 背番号1 GK児玉剛のストーリー 第1話[夢のJリーガー]
京都、愛媛、山形とクラブを渡り、2019年、FC東京へ完全移籍。
プロになって11年目。
ポジションはゴールキーパー。
32歳、児玉剛の今。
Jリーグ再開が待たれる中断期間、児玉はいつもと変わらず、ゴールキーパー練習を終えたあと、室内で入念な筋トレをこなし、あがってきた。児玉はケガなく2020年シーズンを迎えた。
第1話[夢のJリーガー]
児玉は、Jリーグが発足してサッカーが盛り上がっていた幼稚園年長のとき、母に勧められてサッカーを始めた。
「当時、三浦知良選手がすごい人気で、テレビで見てましたね」
児玉は、自然とサッカー選手になりたいと思うようになる。
「小さいころは、いろんなポジションをやっていて、キーパーになったのは小学校高学年。背は真ん中ぐらいだったけど、気づいたらキーパーをやる回数が多くなっていた」という。
小学4年生のとき、地元のガンバ大阪ジュニアに入り、5、6年生の頃にはキーパーとして、全国大会に出場するまでに成長した。中学時代は吹田クラブ、高校時代は京都パープルサンガ(現・京都サンガF.C.)ユースでプレー。高1で国体選手に選ばれると、高3では、キャプテンとして国体に出場した。2種登録選手としてサンガでサテライトリーグにも出場し、トップに昇格することだけを考えてサッカーをする毎日。
だが、叶わず、大学進学を決める。
関西大学進学後は、関西選抜メンバーに選ばれ、4年のときには、キャプテンとしてデンソーカップで優勝。大学1年時から特別指定選手としてサンガのトップチームに練習参加していた児玉は、2010年、京都でJリーガーになる夢を叶えた。
「何チームかオファーがあったけど、やっぱり俺は、高校の時にトップ昇格できひんかったっていう悔しい思いがあったから、『サンガに入りたい』っていう気持ちが強かったんで、サンガに決めました」
児玉がプロになった年、サンガのゴールマウスを守っていたのは、7つ年上の水谷雄一(現・AC長野パルセイロ GKコーチ)。2番手には9つ年上の平井直人(現・カターレ富山 GKコーチ)、3つ年下に守田達弥(現・サガン鳥栖)がいた。
「俺が京都で1年目は、水谷さんと平井さんが試合に出てて、試合に出てない俺とジャンボ(守田達弥)がいた。6月の中断期間(2010 FIFAワールドカップによる中断期間)には、俺がプレマッチに出てたから、『キタ!試合に出れる!』と思ってんけど、そこで監督が、(加藤)久さんから秋田(豊)さんに変わって(※2010年7月25日、等々力で川崎フロンターレに0-1で敗れると、成績不振により加藤久が解任され、秋田豊がコーチから監督に昇格)、4番手やったジャンボがいきなり試合に出て、ほんで俺、メンバー外になった。
その時は、俺も若かったから、『ハッ?』と思ったし。やっぱ辛かったし、悔しいし、『なんでやねん』っていう気持ちがあった」
プロになって初めての公式戦は、2013年9月8日、天皇杯2回戦。佐川印刷SCと対戦し、4-0で完封する。
「試合に出れてなかったんで、高ぶっていたし、『絶対、勝ってやろう』っていう強い気持ちがあった。大木(武)さんに『よくやった』って言ってもらえて嬉しかった」
試合後、大木武監督から評価はもらったものの、正ゴールキーパーに取って代わるのは、簡単ではなかった。児玉は気持ちを切り替え、いつ出番がきてもいいように準備をし続けた。
「やっぱり、自分の中では『試合に出たい』っていうか、『試合に出てなんぼ』っていう気持ちが常にあった」
「他のチームに行って、試合に出ること、いろんな経験をしてよかった。あの時の決断はよかったと思ってる」
→ 第2話[移籍]~児玉のサッカー人生を動かしたサンガでの出逢い