中野吉之伴フッスバルラボ

ハリルホジッチの解任について思う。海外を見習う前に覚悟を持って支えたのか。そして、ドイツで起こったことを知ってほしい

▼ハリルホジッチ監督が解任されて10日が経った。

この元日本代表監督の解任は様々な人が見解を述べ、様々な議論を巻き起こしている。「なるほど」と思わせられる意見も多かった。ワールドカップ開催の2か月前に解任されることに対して納得がいかないという思いは、僕にもある。

そこで急遽、自分なりにこの解任を振り返り、考えをまとめてみたいと思う。

今回、焦点に「信頼関係」が挙げられている。JFA田嶋幸三会長の言葉を引用すれば、「監督と選手との間の信頼関係が薄れてしまった」ことが解任の大きな要因だということになる。

僕は真相を知らない。本当にそうかもしれないし、そうではないかもしれない。メディアで発信されているニュースやコメントのすべてが正しいという証拠もない。当事者にしかわからないことはたくさんあるはずだ。

会長が「(監督決断は)私が決断しました」と言ったからと、本当に一人で決断したということにもならない。責任をすべて背負い込んだということだって考えられる。そこをどうこういうのはまた違うだろう。

もちろん、だから「仕方ない」というわけにはいかない。

多くのサッカー関係者が指摘しているように、ハリルホジッチ元監督が「どのようにチームを作り上げ、どのようなアイディアで挑み、どのような戦いぶりを見せるのか」を検証・分析する機会を失ったことは事実なのだ。

後任監督やスタッフの人事、解任のタイミングにしても、どう考えても不可思議に思えるものが多い。だから、そのことに絶望しているサッカーファンの気持ちもわかる。

ただそうした「信頼があった」「なかった」の論争の前に、私が疑問を抱き指摘したい点は、「それほど重要視されていた信頼関係を強靭に築き上げるための努力を最大限にしたのか」ということだ。

JFAは「監督を信頼してサポートしようとしていた」と言っている。監督の力を評価し、日本を導いてくれる存在だと認めていたはずだ。しかし、その信頼を支えるために一体どこまで、何をしたのだろうか? 監督と顔を合わせて「信頼していますよ」と伝えることなのか? 監督の意見を聞き入れることなのか?

信頼関係が難しくなっているのは、互いの価値観や考え方、解釈にズレが生じているからではないだろうか。互いが全く違う生活圏や文化圏で生まれ、育ってきた者同士ならなおさらそうだ。

なぜそうした行動をするのか、なぜそう捉えるのか、なぜそんな反応をするのか。

そう思ってしまう気持ちはわかる。では、相手のことがうまくわからないならば、そのバックボーンを知ることはとても重要ではないだろうか。互いが納得していなければ、信頼することもわかりあうこともできないではないか。

だとしたら、互いの文化や考え方、人となりをよく知る人物に間に入ってもらうことも必要だったのではないか。ボスニア人の考えを知るならば、生い立ちや習慣を知ることで、わかることだってあったはずだ。ボスニアの話をできる人を呼び、レクチャーしてもらったのだろうか。

フランスリーグで長くプレーし、指導してきた監督の感覚を理解する必要だってあるというのならば、フランスリーグでプレーしていた経験者や、フランス在住歴のある人を呼んで、なぜ彼らがそういう考えや姿勢を持つのかを学ぶ環境を作ることだってできたのではないか。

メンバーに入れない選手が不満を抱えていたのだとしたら、監督への不満を口外するより前に、どうすればその中で自分のパフォーマンスを発揮できるかを見つめるべきだし、そのためにメンタルトレーナー、教育学のスペシャリストに助けを求めることだってできたのではないだろうか。

体脂肪率が問題だと発言されたら、体脂肪率を下げるために栄養士を呼んで、アドバイスを求めなかったのだろうか。代表選手が自分の考えでダイエットを行ってコンディションを損ねたという話を聞いても、「おいおい、ちゃんとやれよな」と思っていたくらいなのだろうか。

「外国人監督の考えていることはわからない」
「日本人のことは日本人が一番わかる」

その前に、分かり合うための努力をやりきったのだろうか。そして、それを周りの人に伝えるためのアクションをやりきったのだろうか。

「このくらい言わなくてもわかるでしょう」

という暗黙の了解を、勝手に信じてそれに甘えてしまわなかったか? そこまでやっても、互いの溝が埋まらない。それならば仕方ない。それならばわかる。

ただ外からの印象として、「現場を信頼してすべて任せてきたけど、うまくいかなかった、私たちは信じていたんですけどね」といった感じをどうしても受けてしまう。「私は一生懸命やっているんです」なら誰でもいえる。誰だってがんばっている。でも、そのがんばりが成果に現れるために、サポートが必要なのではないか。

そもそも「信頼関係」があるとはどんなことだろう。

互いに認め合い、尊重し合い、理解し合い、助け合い、受け止め合う。では、そのためには互い常にニコニコしてられる仲良し状態がいいのだろうか? 嫌なことを口にせず互いに心地いいことだけを見て、ふわふわしている状態? 確かにそれは快適だろう。守られているのだから。

しかし、心理学的にはそうした「コンフォートゾーン」を出ることが、その人を成長させる上で大きな意味を持つとされている。

快適なぬるま湯から抜け出し、より高みに到達するために、うまくいかないところへ挑戦し、簡単にはできないことと向き合うことで、これまでの自分にはなかった視点が生まれ、持てなかった感覚が身につき、厳しさの中で耐え抜く力を養っていく。

ただ「厳しければ厳しい方がいい」というわけではない。
故デットマール・クラマーはこんなことを言っていた。

「高すぎる目標設定は選手の負担になる。目標は高く設定することは大事だ。高く設定された目標があるから、選手も指導者もそれに向けて励むことができる。しかし、設定された目標が選手の負担になるのだとすると問題になる。高すぎる目標はプレッシャーになる。そうした状態で普段通りの力を発揮することができるだろうか」

ハリルホジッチの要求が高すぎたのだとしたら、要求を満たせない選手を責めるのは酷なことになる。ただそうだとしたら、最初の段階でサッカー協会の定めた目標が高すぎたということになる。あるいは、そもそも両者が掲げていた目標が違っていたのではないだろうか。

いずれにしても、じっくりと考えても、結局のところ「日本はまだ覚悟を決めることができていなかった」ということなのかもしれない。

今回の解任劇に際して「ドイツなどを見習え」「長期的なプロジェクトをするべきだ」と主張する声を耳にする。確かに、その通りだ。しかし、それをやり通すだけの覚悟が、受け止めるだけのキャパシティが、いまの日本サッカー界にあるとは正直思えない。

ドイツは「タレント育成プロジェクト」をやり通し、2014年のワールドカップで見事に優勝を果たした。今回のロシア大会でも優勝候補の一角だ。しかし、このプロジェクトが途中で頓挫する可能性だってあったのだ。

2004年、ドイツサッカー連盟では代表監督探しが難航していた。2006年自国開催のワールドカップで恥ずかしくない成績と内容をもたらすことができる人材。

多くの名前が挙がり、多くの監督に断られ、最後の最後で名乗りを上げたのがユルゲン・クリンスマンだった。そして、クリンスマンが右腕としてアシスタントコーチに呼んだのが現代表監督のヨアヒム・レーフだ。

2人はドイツサッカーを根本から改革するために、斬新なアイディアを次々に持ち込んだ。過去の代表チームを徹底的に分析し、トップレベルのサッカーと比較して一番の問題点を次のように挙げた。

「あまりにもプレースピードが遅く、あまりにも多くのボールコンタクトを要している」

そこでレーフが中心となり、プレースピードを上げるトレーニングを繰り返した。さらに最先端のスポーツ科学を駆使したトレーニングを取り入れ、選手の肉体改造に励んだ。

ドイツ人選手はパワーがあるが、動きがぎこちない選手も多い。彼らにしなやかさを与えるため、コーディネーション(「筋肉の動きと脳の反応をつなぎ合わせるためのトレーニング」)や柔軟性を重視するトレーニングを組み込んでいった。

若手選手を積極的に登用した。フィリップ・ラーム、バスティアン・シュバインシュタイガー、ペル・メルテザッカー、ルーカス・ポドルスキといった選手はこれまでの代表選手にはない柔軟で、アイディアのあるプレーを見せてくれた。

クリンスマンが代表に呼び、スタメンを選ぶ基準は明確だった。コンディションやチーム戦略などの諸事情はあるが、すべてが実力重視の考え方に沿ったもの。どのポジションでも適用した。

それまで聖域だったGKにもメスを入れ、2002年のワールドカップMVPのカーンを正GKから外す決断も下した。反対意見も多かったが、その理由もはっきりしていた。組織的なゾーンディフェンスで守るためには、4バックの裏でリベロの役割がこなせるイエンス・レーマンの能力が必要だったからだ。

しかし、抜本的な改革の連続が即座に受け入れられたわけではない。

2006年にフィレンツェで行われたイタリア代表との親善試合で1対4の完敗を喫すると、メディアからの風当たりは激しくなった。また、クリンスマンがアメリカ・カリフォルニアの自宅を拠点に動いていたこともメディアにとっては格好の攻撃材料だった。

本戦前のワークショップに31か国の代表監督がそろうなか、なんとクリンスマンは欠席した。これには大会組織委員長を務めていたフランツ・ベッケンバウアーも激怒した。フォーカス誌編集長のヘルムート・マルクボルトも辛辣に書きたてた。

ベッケンバウアー「開催国の代表監督がいなければならないのは疑問の余地もない。これは義務だ。それ以外にどれだけの義務が彼にあるというのだ」

マルクボルト「この国における最高の選手たちは一人の夢見人に委ねられてしまった。一人で歩きだし、戦略よりもまじないを信じている。素人に率いられた専門家集団。危険なミックスだ」

プレッシャーは相当なものだったに違いない。それでもクリンスマンは自分の決断を信じ、妥協することなく突き進んだ。そして、ドイツサッカー連盟は彼と一蓮托生する決意をした。

サッカー界にはいろいろな「たら、れば」がある。ポジティブにも、ネガティブにも。ドイツW杯開幕のコスタリカ戦、4対2で勝利したものの、守備はバラバラだった。不用意なオフサイドトラップ、横並びになってしまう4バック。2失点ともあまりにあっさりとしたものだった。

フィリップ・ラームとトルステン・フリンクスのすばらしいミドルシュートが決まらなかったら引き分け、あるいは負ける可能性もあった。

もしあの試合で負けてしまっていたら?ドイツサッカーの変革はあと10年は遅くなったかもしれない。

だが、あのときのドイツには「それでも」と決意するだけの状態にあった。次へつなげるための戦いを踏み出さなければ、再び世界王者になるタイミングはどんどん遅れていくだけという極限までの危機感があった。これまでと同じことをしていては変われない。

クリンスマンとレーフのアイディアにはそのためのチャンスを感じさせるものがあった。もし失敗して改革が10年遅くなろうとも、その道を歩んでいくと「決意」をしたからこそ、クリンスマンにかけることができたのだ。

現在の日本サッカー界にそこまでの「決意」をするだけのバックボーンがあるだろうか。サッカー人口95万人。高校サッカー、あるいは大学サッカーでほとんどの人が辞めてしまう環境、ワールドカップやオリンピックのときだけ盛り上がる日常、部活動の在り方は週休二日制になってもすぐに大きく変わったりはしない。

それでもあえてポジティブに考えると、今回の解任に激怒しているサッカーファンが相当数いるということは逆に喜ばしい進歩ということになる。真摯にサッカーと向き合おうとしている人は間違いなく増えてきている。

でも、もっともっとそういう人が必要なのだ。まだ時間が必要なのだ。このままでは置いていかれるという焦りを感じているのもわかる。

想像以上のスピードで世界のトップレベルが進んでいるのは事実だ。

だが、速く走ろうとすれば速く走れるわけではない。それではバランスを崩し、倒れてしまうだけだ。無理をしてはいけないのだ。いまそれぞれができるものを少しずつでもよくしていく。結局のところ、自分たちのまわりの環境を自らの影響で変えられるところから変えていくことしかないのだ。

何もしなければいつまでも変わらない。

そして、代表だけがサッカーではない。悲しい思いでベットに入り、寝不足のまま目が覚めても、私はサッカーをやりにグラウンドに行きたくなる。その思いが、大切なのではないか。私たちがサッカーを裏切らなければ、サッカーは私たちを絶対に裏切らない。

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