中野吉之伴フッスバルラボ

日本がポーランド戦で決断した終盤の試合運びについて私なりの見解を示しておきたいと思う

▼ロシア・ワールドカップのグループリーグ最終戦、日本は試合終盤ポーランドに負けていたが、パス回しで時間を消費する選択をした。

このことの顛末についてはご存知のことだろう。

グループリーグ(GL)の最終戦を前に、日本、コロンビア、セネガルの3カ国がベスト16進出の可能性を残していた。すでにGL敗退が決まっていたポーランドと対戦する日本は引き分け(勝ち点1)以上でベスト16進出を確定させることができ、負けても「セネガル×コロンビア」の結果次第ではベスト16進出が決まる状態だった。

サッカーは何が起こるかわからない。

とはいえ、「日本×ポーランド」と「コロンビア×セネガル」の両試合はここまで数奇な展開になるものだろうかという流れになっていった。セネガルに1対0で勝利したコロンビアが首位で突破。日本とセネガルはともに勝ち点が並び、得失点差も同じで、当該試合でも引き分け。最終的にワールドカップで初めて、「フェアプレー」という本来なら数字で測ることができないものを無理やり具現化したルールが両者の命運を分けることとなった。

日本国内だけでなく、世界中を巻き込んで議論が行われているのは、この「フェアプレーポイント」を活用した戦い方の選択だった。日本は試合終盤、フェアプレーポイントでのリードを生かすべく、0対1で負けている試合をそのまま終わらせる決断を取った。そもそも、そのまま終わったとしてもベスト16進出となるわけではなく、「コロンビア×セネガル」の試合結果次第という他力本願になるのに、日本がとったプレーの判断はそれでいいのか、という指摘だ。確かに、セネガルが反撃を強めて結果が1対1になっていたら、日本はGLで敗退していた。

またワールドカップという世界最大のサッカーの祭典でそうした「アンフェア」な時間稼ぎが行われてしまったことの是非に対して、様々な人が様々な立場から様々な見解を述べている。あの時間稼ぎのボール回しそのものを批判する声がある。相手への、サッカーへのリスペクトがないという。そうかもしれない。そうだとも思う。しかし、時間稼ぎだけで考えたらどの国もどのチームもやっている。今大会の「フランス×デンマーク」でもベスト16進出に向けてリスクを冒したくない両者の思惑があり、「日本×ポーランド」ほどあけっぴろげではなかったが、明らかに狙い通り0対0のまま試合が終わらせた。その試合を「退屈」とする声はあっても、「卑怯」とする声はなかったはずだ。それはGLという枠組みで見たら、最終戦に勝ったから負けたからだけが重要ではないことを誰もがわかっているからだ。その前の2試合の流れと結果があったからこそ、3戦目でそうした選択肢をすることができる。そこは忘れてはいけない。

敗退する可能性があるのに、試合終盤のタイミングでサッカーをすることをやめたと批判する声もある。そうだと思う。でも、もう一方の会場ではコロンビアの方が優勢だった。可能性で考えたらセネガルが同点に追いつくより、コロンビアが2対0とする方が高かった。現地で見ているスタッフからの情報も判断基準の一つになったはずだ。それでも当然1対1となる可能性はある。1チャンスから、相手のミスから1点が生まれることはサッカーで普通に起こりえることだからだ。しかし、「日本×ポーランド」の試合の流れ、感覚などの情報を整理して一番可能性が高い選択肢の一つがあの決断だったことは間違いない。どれを選ぶのか。それは監督に委ねられた責任だ。別の決断をしてうまくいくことも、誤算となることもある。決断をしたら、それを貫く。その視点も大事だと思う。

他にもいろんな視点で考えられる問題だろう。それぞれに生き方があるように、それぞれに感じ方も考え方もある。自分と近いフィーリングの切り口にはなるほどとうなずきやすいし、自分と遠い価値観の意見には「どれだけそれが正論ぽく書かれていても首をかしげてしまう」ものだ。

デリケートな問題でもある。だから、私はすぐに自分の中で納得のいく答えは見つからなかった。いろんな人の記事を読んだ。自分なりにどのように解釈すべきか、その整理するのに大いに参考にさせていただいた。その一つ、footballistaで林舞輝さんのコラム「必然のギャンブル?ポーランド戦、日本はなぜ機能しなかったのか?」を目にした。記事終盤に書かれていた一節が非常に印象深かったので引用させていただきたい。

「(中略)残念ながら、これこそがサッカーだからだ。夢をぶち壊して申し訳ないが、大抵サッカーは美しくないし、清くもないし、正義も夢もない。道徳的な行いが報われるとは限らないし、倫理観など皆無のプレーが往々にして報われることがある。西野監督本人の言葉を借りれば、「不本意な決断」を強いられることもある。結果が見えない状態ですべてを一気に失うリスクも覚悟し、勝つために自分の信条にそぐわない決断をブーイングを浴びせられながら行わなければならない。これが現実だ。そういうギリギリの世界なのだ」

その通りだと思う。

サッカーと20年以上つきあってきて、本当にそうだと思う場面に無数出くわしてきた。相手や審判を欺き、結果を残すことに執着する選手やチームを知っている。あるいはピッチ外で自分の主張を押し通し、自分の正義があたかもすべてであるかのような振る舞いをする人、勘違いをしているのかやたらに話を大きくして自分を飾り立てる人を何人も見てきた。そうした人たちの意見が採用され、仕事や立ち位置を手にしていく。普通にあることだ。日本でも、ドイツでも。そして、その人がどうこうというのではなく、確かにサッカーとは、あるいは社会とは、あるいは人間とはそもそもそういうものなのかもしれない。

批判されるようなことが行われても、それも人間的なのだ。

それはそれだ。起こったことをどうこう言う人間は山のようにいるが、その人間が同じ立場になったら「今回はしょうがない」という言葉を口にしてしまうのが私たちなのだ。もちろんそうでない人もいる。でも、人間性とはポジティブの方にだけベクトルが向いているわけではない。負の感情とされるものを誰でも持っているし、それがあって、それが出てくるのも人間性だとも言えるのだ。その意味では正しいし、そこを認める必要がある。

でも、「だからそれで仕方がない」とか、「でも、だからそれでいいんだ」とかとなると、私は納得しかねる。そうではないのではないか、と。それでも、といつも思うのだ。確かにサッカーの世界は不条理で、理不尽で、不公平で、不平等が普通なのかもしれない。それでも、ギリギリの勝負でそうしたサッカーとなってしまうことがあっても、いつだって美しく、清く、素敵で、正義も夢もあるのがサッカーではないか。だからこそ私はサッカーが大好きであり、サッカーなしでは生きていけない人間なのだ。それは偶然の産物ではないはずだ。

林さんが指摘するように「偽りのファンタジーを」夢みたりするばかりではダメだし、人としてのまっとうな生活のあり方を教えることもまた教育においては大事だ。夢を見ることの尊さだけを呪文のように子どもに言っておきながら、夢を見続ける人を煙たがったり、社会不適合者のように扱うようであってはならない。

だからと「夢を見るな」というのは違う。夢があることとは、やはりすばらしいことなのだから。現実を知り、夢をかなえることの難しさを知り、その上で夢を持つことの大切さを伝える。現実のサッカーとはFIFAやJFAが掲げる理想とは程遠いところにあるかもしれない。それでもサッカーのもつ美しさ、清らかさ、誠実さ、純粋さ、すばらしさに、私たちは何度も心をわしづかみにされてきたではないか。助けられてきたではないか。現実を、当たり前を受け入れながらもそれだけではないと理想を求め立ち向かっていくからこそ、そうした人たちがたくさんいたからこそではないか。だから「あれが正解」だと呑気に口にしてはいけない。きれいごとだけでやっていけないこともあるが、きれいごとがないとその先がないではないか。

今回、他力本願という形で試合を「不本意に」終えざるを得なくなり、そのことを遺憾と思うのであれば、次回同じような状況になった時に、別の選択肢を取ることができるように歩んでいかなければならないではないか。それは当事者だけの問題ではない。

「あの決断が当たり前」
「いや、あの決断はあり得ない」

その2択で立ち止まるのではなく、この現実を受け止め、次への一歩を踏み出していかなければならない。彼らだけではなく、私たちも。彼らが、そして私たちが次に「本意の決断」ができるようになるために。それが日本対ポーランド戦から学ばなければならないことではないだろうか。

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