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【コラム】国見高校サッカー部コーチ、小嶺栄二さんの訃報に寄せて~この街のサッカーを支えているもの~

11月17日、元V・ファーレン長崎の選手で、国見高校サッカー部コーチの小嶺栄二さんが亡くなられた。告別氏は翌日に長崎市の教会で行われた。当日は雨で、余り多くの人に連絡を回していなかったにもかかわらず、友人・先輩・後輩・他校の指導者・教え子など、大勢の人が最後の別れにつめかけた。

指導者として県内での評価も高かっただけに、いずれもっと大成すると思っていた。これからの指導者だった。それだけに亡くなられたのが本当に惜しく悔しい。同時に、こういう人たちによって長崎のサッカーが成り立っている、支えられているということを知ってもらいたくて、小嶺栄二さんのことを書かなければと思った。だが自分のなかで思っていた以上にショックがあり、なかなか書き出せずに時間がかかってしまった。今回書くにあたって、小嶺栄二さんに近しい方の了解を取った上で、書かせてもらうこととする。

彼の友人たちも、私を含む選手時代を知るサポーターたちも、彼を知る人はみな、小嶺栄二さんを「栄二」と下の名前で呼んだ。ここからは僭越ながら、栄二と書かせてもらうことを了解してもらいたい。

栄二は、高校時代に国見高校で高校三冠(選手権・インターハイ・国体)を達成し、進学した日本体育大学では4年生のときに主将を務め、2005年には、設立間もなかったV・ファーレン長崎で背番号19を背負い左サイドのレギュラーとして活躍した。


2006年を最後に現役を引退し、母校の日体大でコーチを務めたあと、2013年にコーチとして国見高校に戻ると、2015年からは監督に就任。新しい国見のスタイルを目指してベースを整えることに尽力した。昨年、指導者としてさらに上をめざすために、日体大サッカー部コーチ兼任で、なでしこ一部リーグの日体大FIELDS横浜の監督に就任し、12月には一部残留と全日本大学女子サッカー選手権大会の優勝を果たしたばかりだった。

栄二が重い病だと知ったのは、今年の1月だった。以前から体調不良を感じていた栄二が、シーズンオフに入ってから検査を受けた際に病が発覚。すぐ入院することになったのだという。

相当に重い状態だと聞き、かなりショックを受けたのだが、どこか現実味がないような感じがあった。余りに唐突な話だったのもあるだろうが、一番大きかったのは栄二のキャラクターのためだと思う。飄々として、変わり者で、頑固で、マイペース・・、そんなイメージの栄二と、重い病という現実がどこかうまく結びつかなかった。

「栄二のために何かしてやりたい」
そう言ったのは栄二の同級生で、国見高校、V・ファーレン長崎で一緒にプレーした田上渉だった。友人たちに連絡を取って支援を募りながら、栄二に何をしたいか希望を聞いた。栄二の答えは「ピッチで指導をしたい」だったという。

国見高校の木藤健太監督や内田利広総監督は、病室でも対応できる映像でのスカウティングなどを栄二に依頼し、普段のコーチ役としては、田上を暫定コーチとするよう準備を整え、いつでも栄二が指導に入れるよう手配を整えた。栄二が国見OBで、2017年まで国見高校の監督で、今の3年生は栄二自らが声をかけて集めた生徒たちだったことも、幸いしたのだと思う。

夏頃に病院を出た栄二は、自宅での療養に入った。この時点でかなり良くないと聞いていた。それでも状態が良いときは練習場や試合に顔を出したという。そんな話を聞く内に、なんとなく「栄二は案外、大丈夫なんじゃないか」と思ったりもした。

だが症状は着実に進行していたのだろう。亡くなる二週間前に全国高校サッカー選手県大会準決勝の取材で会った栄二は「まだ何とか生きています(笑)」と軽口を飛ばしていたが、随分と痩せて立っているのもキツそうな雰囲気があった。

準決勝で国見は、栄二と一緒にV・ファーレンでプレーしたこともある久留貴昭監督の率いる創成館高校を撃破。全国まであと一歩の位置へとたどりついた。国見にとって9年ぶりとなる決勝戦の相手は、恩師である小嶺忠敏監督の長崎総合科学大学附属高校。大会後、多くの関係者が「近年、最も総附を追い詰めた」、「どちらが勝ってもおかしくなかった」と評した激戦の末、あと一歩及ばず国見は準優勝で大会を終えた。

試合後、栄二のところへ行った。「きつかったら座ってでも良いよ。何ならコメントなしでも良いよ」と言うと、栄二は「いや、大丈夫です。何でも聞いてください」と言い、丁寧に試合について語ってくれた。そこでの悔しがり方や、言葉の力強さを聞き、「もしかして、まだまだ大丈夫なんじゃないか」と思ったのだが、あとで聞くと、栄二は酸素ボンベを持ってスタジアム入りしているほど、苦しい状態だったらしい。それからちょうど一週間後、栄二は家族に看取られながら亡くなった。

告別式で友人たちは、栄二の顔を見ると泣いてしまうため、ひつぎから背を向けてばかりいたという。余りにも突然の別れで、みんなの感情はグチャグチャになっているようだった。

栄二の奥さんが泣いているのを見たとき、三年前に国見高校を取材したときのことを思い出した。監督だった栄二が、突然の申し出を快く受けてくれた取材だった。取材後に話をしていると「今度、結婚するんですよ」と栄二は言っていた。それからたった三年なんだなと思った。

普段から冗談ばかり言っていた栄二なので、奥さんは最後の会話をくだらなさ過ぎて覚えてないという。亡くなってから、田上は車に乗っていると栄二の残像を感じるという。いつも車に乗せていたので、隣に座っている栄二の姿や声がフト甦ってくるのだそうだ。日常の中から突然、誰かがいなくなるというのは、そういうことなのだろう。

昔から栄二を知り、国見でもV・ファーレンでもともにプレーした小田幸司さんは、友人代表の弔辞で、何度も「ありがとう」と言った。栄二の両親に栄二を生んでくれたことを、奥さんに栄二と結婚してくれたことを、栄二に、友達になってくれたことを、サッカーを選んでくれたことを、国見高校に来たことを・・、何度も何度もありがとうと言っていた。

栄二が高校生のときから取材をしていた長崎新聞の副島宏城記者は、告別式の間中、栄二が出場した2000年の第79回高校サッカー選手権のキャッチフレーズ「サッカーと生きていく」を思い出していたという。

正しく、栄二はサッカーと生きたのだと思う。
家族や友人とともにサッカーに生き、命が燃え尽きる限界までサッカーで生きたのだと思う。そして、栄二の記憶や思い出は彼の周囲の人たちにずっと残り、その人たちがいる限り、栄二が残したものはずっと続いていくのだろう。

この街のサッカーは、そういう人たちの思いに支えられている。

謹んで、小嶺栄二さんのご冥福をお祈りいたします。

reported by 藤原裕久

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